「日学教師の会」応援コラム 吉海直人

 日本語日本文学科出身で、現在国語あるいは日本語の教師として働いている卒業生が少なくないことがわかりました。それなら教師間の交流があった方がいいとのことになり、「日学教師の会」が発足しました。といっても職場は忙しいので、目立った活動は望めそうもありません。

 そこでせめてコラムで、教師のみなさんを応援できないかと考え、掲載を始めることにしました。少しでもみなさんのお役に立てれば幸いです。

 

吉海直人(よしかい・なおと)

1953年長崎生まれ。國學院大學大学院博士後期課程修了。博士(文学)。同志社女子大学名誉教授。専門は平安時代の物語及び和歌の研究。『百人一首の正体』ほか著書多数。

 

17「春はあけぼの」は平安朝の美意識ではなかった!(古典5)            2025.4.29

 『枕草子』と言えば、冒頭の「春はあけぼの」章段が一番有名ですね。中学校の国語や高校古文の教科書にも必ずといっていいほど採用されており、『枕草子』の代表的章段といっても過言ではありません。そのため、そこには伝統的な日本の四季折々の自然美や風物が鏤(ちりば)められていると思っている人が案外多いようです。みなさんはいかがですか。

 しかしながらそれは明らかに誤解でした。本来、春の風物としては「梅・鶯・桜・霞」などがあげられてしかるべきだからです。そこに「あけぼの」が含まれる余地は一切ありません。それにもかかわらず現代人、例えば初めて古典の授業で『枕草子』を習う生徒は、これをすんなり平安時代の美意識と思ってそのまま受け入れてはいないでしょうか。しかしながら当時の人々は、「春はあけぼの」という文章を耳にしたとたん、少なからず違和感を抱いたに違いないのです。

 考えてみて下さい。仮に「あけぼの」が春の景物として既に認められていたとしたら、清少納言は当たり前のことを提示したことになります。それでは宮廷で評価・称讃されるはずはありませんよね。要するに『枕草子』は、決して当時の伝統的な美意識を集成した「平安朝美意識辞典」などではなかったのです。むしろそうではないから、言い換えれば当時の美意識とは異なっていたからこそ、人々の驚きと注目を浴びることができたのです。

 あらためて『枕草子』初段の構成を見ると、「春はあけぼの・夏は夜・秋は夕暮れ・冬はつとめて」と、一日の中で推移する特定の時間帯(特に夜)が切り取られ、それが四季と組み合わせられていることに気付きます(ここから「春のあけぼの」と「秋の夕暮れ」という対句も誕生しました)。要するに「春はあけぼの」は、清少納言自身が新たに発見・提起した、ダイナミックな春の時間帯なのです。それが男女の「後朝の別れ」の時刻であることも重要でしょう。

 そもそも「あけぼの」という言葉自体、上代(『万葉集』など)には用例がなく、平安時代においても古い『竹取物語』・『伊勢物語』・『古今集』には見られません。『うつほ物語』『蜻蛉(かげろう)日記』に至って、ようやく登場している比較的珍しい言葉です。『枕草子』にしても、冒頭の一例しか用いられておらず、当時としては非常にマイナーな言葉であったことがわかります(女性語かもしれません)。

 類義語の「あさぼらけ」なら、既に『古今集』・『後撰集』に用例があります。それに対して「あけぼの」は歌語としての古い用例がなく、初めて勅撰集に登場するのは遅れて『後拾遺集』であり、それが流行するのは『新古今集』まで待たなければなりませんでした。個人としては和泉式部の歌が嚆矢のようです(やはり女性)。その「あけぼの」にいち早く反応したのが『源氏物語』であり、用例数はなんと十四例も認められます。しかもそのうちの三例(一例は和歌)は「春のあけぼの」ですから、『枕草子』を意識していると見て間違いなさそうです。

 中でも光源氏の長男である夕霧が、野分(暴風)のどさくさに紛れて義理の母である紫の上を垣間見た印象を、「春の曙の霞の間より、おもしろき樺(かば)桜の咲き乱れたるを見る心地す」(野分巻)と述べているところは圧巻です。ただしこの文章はきわめて比喩的であり、しかも秋の夕暮に春のあけぼのを引き合いに出しているのですから、春と秋を対比させていることはわかりますが、薄暗い垣間見における紫の上の具体的な美しさはほとんど伝わってこない憾(うら)みがあります。

 いずれにしても清少納言が、当時の伝統的な美意識とは異なる捉(とら)え方を提示したからこそ、周囲の人々の驚きに満ちた称讃を勝ち取ったのです。その代表例が「春はあけぼの」だとすると、最初にこの一文にふれた現代人は、素直にそのまま受け入れるのではなく、むしろ「どうして?本当?」という驚きや疑問を抱いてください。そこから古典の世界が開かれてくるのです。

 

16「ローマ字」表記について(番外4)                       2025.4.22

 最近、ローマ字の見直しが話題になっています。せっかくなので、ローマ字について少しだけ勉強しておきましょう。もちろんみなさんはローマ字書けますよね。これは漢字・かなに続く第三の日本語表記ともいえます(漢字では「羅馬字」)。特に国際化が進んだことで、パスポートを含めてローマ字表記を求められることが増加してきました。

 かつてローマ字を覚えたての幼い私は、英語との違いなどわからず、ローマ字で書けば外国人にも意味が通じると本気で信じていました。それが心に残っていたためか、若い頃はどうして日本人がローマ字で自分の名前を書かなければならないのだ、とやや批判的でした。しかし外国人にしてみれば、人名や地名の発音が一目でわかる非常に便利な表記だったのです。どうやらローマ字というのは、日本人が必要だったというより、西欧との関わりの中で、西洋人のために生み出されたものだったようです。

 そもそも私たちが使用しているのは英語のアルファベットなのに、何故ローマ字と称するのでしょうか。それは日本語なのに漢字と称していることと無縁ではありません。ローマ字というのは、古代ローマ帝国で用いられていたラテン文字のことです。英語はそのラテン語から派生しているので、そのままアルファベットを使用しています。なおアルファベットの語源は、ギリシャ語のα(アルファ)・β(ベーター)です。

 日本で最初にローマ字が使用されたのは、古く室町時代のことでした。例によって交易を求めて、ポルトガル人がはるばる日本にやってきました。それに便乗して、イエズス会の宣教師達が布教のために日本にやってきました。彼らは日本語を習得する手段として、日本語をローマ字で書き取ったのです。日本人も英語に読み方をカタカナで振ったりしますよね。その教科書として活版印刷機で刷られたのが、ポルトガル式ローマ字で書かれた『天草版伊曽保物語』(イソップ物語・1593年)であり、『日葡辞書』(1603年)だったのです。これは今となっては、当時の日本語の発音を知る上で非常に貴重な資料とされています。

 しかしながらその後、日本はキリシタンを禁止し、長く鎖国政策を取りました。そのためローマ字は途絶えてしまいました。長い鎖国期間を経て、江戸時代末期になると、再び西欧諸国との交易が行われます。そこで登場したのが、いわゆるヘボン式ローマ字でした。アメリカ人宣教師であるヘボン(「ヘップバーン」です)は、漢字とかなで表記された日本語の習得がやっかいなので、簡単に書ける英語風ローマ字表記を推奨しました。それは安政五年(1867年)のことです。これこそ外国人のための日本語表記だったのです。

 それに対して日本人の手で、日本人に都合のいいローマ字も明治18年に考案されました。それが田中館(たなかだて)愛橘(あいきつ)の日本式ローマ字です。それが改良されて、昭和12年には訓令式ローマ字が法律で定められました。両者の違いは「し」を「si」と書くのが日本式で、「shi」と書くのがヘボン式です。「ち・つ」は「ti・tu」「chi・tsu」となり、「しゃ・ちゃ」は「sya・tya」「sha・cha」と異なります。富士を「huzi」と書くか「fuji」と書くか、トンボを「tonbo」と書くか「tombo」と書くかはどうでしょう。学校では日本式を学びましたが、なんとパスポートはヘボン式なので、今でも混乱が残っています。一番の問題は、「大野」と「小野」の区別がないこと(長音無表記)でしょうか。

 ところで日本式普及の背景には、漢字表記を廃止してローマ字表記にする方が世界に通用するという、いわゆる「ローマ字国字論」の論争がありました。また第二次世界大戦敗戦後、GHQに占領統治されていた時も、ローマ字表記に統一する案が出されたほどです。仮にそうなっていたら、日本は漢字文化圏から離れていたことでしょう。もちろん現在も漢字かな表記のままですが、ローマ字にはそういった歴史的背景や変遷があったことを忘れてはなりません。

 平成に入ってからワープロやパソコンが急速に普及したことで、ローマ字入力の便利さを思い知らされました。ローマ字表記では、文章の意味を読み取るのに多少時間を要しますが、キーボードでの入力となると、かな入力より断然早いし便利だからです。ローマ字は日本語の一部なので、当分の間は用途に応じて使い分けるのが得策でしょう。さて学校教育もいずれ遠からずヘボン式に変更されるのでしょうか。

 

15「的を得る」と「汚名挽回」をめぐって(日本語4)                 2025.4.15

 日本語の慣用表現の中には、間違って使われていると思われているものが少なくありません。例えば「的を射る」と「的を得る」はいかがでしょうか。あなたはどちらが正しいと思いますか。もともとこの表現は弓に関わるものですから、武士階級の中で生まれたものと思われます。ですから使用範囲は狭かったはずです。それが庶民に広がったことで、誤用が生じたのかもしれません。

 普通には「的を得る」は誤用とされているのですが、必ずしも誤用ではなく、そこに方言が紛れ込んでいる恐れもあります。というのも江戸時代の『尾張方言』という本に「的を得ず」とあるので、単純に誤用とは断言できそうもないのです。

 歴史的には政権が京都から江戸に移ったことで、関東の言葉が主流になっていきました。さらにそこに東北方言などが流入することになります。かつて会津藩出身の新島八重について調べていた際、「い」と「え(ゑ)」の区別が曖昧であることに気付きました。それを当てはめると、「いる」と「える」はたちまち相通してしまいます。つまり本人は「射る」のつもりで「える」と発音したものが、相手には「得る」と伝わり、それがそのまま表記された可能性もあるのです。

 他にも考えられることがあります。中国から伝来した「正鵠を得る」という表現と混同された可能性もあります。逆に「的を射る」が影響を与えて、「正鵠を射る」という誤用も生じています。あるいは「当を得る」との混同も考えられそうです。

 実はこの「的を得る」表現を最初に誤用としたのは、『三省堂国語辞典』の第三版(1982年)だとされています。それが第七版(2013年)に至って誤用云々が削除され、改めて正しい使い方として掲載されました。三省堂は自らの誤りを訂正したのですから、これぞ「一日三度反省する」という三省堂の社名にふさわしい行いでしょう。ただしそれによって読者が振り回されたことも事実です。

 それともう一つ、「汚名挽回」「汚名回復」という表現も三省堂絡みであげられます。みなさんの中には即座にそれは間違いで、「名誉挽回」「名誉回復」あるいは「汚名返上」が正しいと答える方がいらっしゃるかと思います。これについては1976年に出された土屋道雄著『死にかけた日本語』(英潮社)で指摘されており、それ以来誤用とされるようになったとのことです。

 ところが用例を調べてみると、まず「不名誉挽回」が出てきます。同様に「汚名挽回」の使用例も少なくないことがわかりました。なんと吉川英治の『宮本武蔵』にも、「一時の汚名を将来の精進で挽回してくれ」と出ていました。これは「汚名」の状態に戻す(「汚名」を取り戻す)のではなく、「汚名」を受けたものをそれ以前の普通の状態に戻す、あるいは元の状態に戻す意味だったのです。類似した例に「疲労回復」や「劣勢挽回」があります。逆に「汚名返上」の古い使用例は探しても見当たりませんでした。もちろん「汚名を雪(そそ)ぐ」なら普通に使われていますが。

 この「汚名挽回」については、2004年に出された北原保夫著『問題な日本語』(大修館書店)で、誤用ではないという反論が示されました。そんなこんなで『三省堂国語辞典第七版』では、「汚名挽回」を誤用ではないとあえて訂正・明記しています。もちろん辞書が訂正したからといって、それで正しさが証明されたわけではありません。すぐに便乗するのではなく、あらためて用例を調査したり、徹底的に議論した上でないと決められないからです。それにしても三省堂の辞書の影響力は大きいですね。

 

14 芥川『羅生門』の基礎知識(近代4)                        2025.4.8

 平安末期に成立した『今昔物語集』という大部な説話文学があること、知っていますよね。残念なことに作者も編者もわかっていません。漢文で筆録されているために、簡単には読めない作品でした。ところが文学史的に見ると、例えば『伊勢物語』や『大和物語』と同話が掲載されており、部分的な比較資料として重宝されています。

 また中世に成立した『宇治拾遺物語』と重なる話も多く、これも両作品の比較資料として有益です。『今昔物語集』の魅力はそれだけではありません。時代を越えて近代文学の創作にまで使われています。代表的な作家だけでも、武者小路実篤・堀辰雄・菊池寛・海音寺潮五郎・新田次郎・杉本苑子・田辺聖子・福永武彦などがあげられます。

 その代表者が芥川龍之介でした。もちろん芥川は、『道祖問答』・『地獄変』・『龍』などの作品は『宇治拾遺物語』を踏まえているし、『袈裟と盛遠』は『源平盛衰記』を典拠としています。しかしながら『青年と死』(大正3年)以降、『羅生門』・『鼻』・『芋粥』・『運』・『偸盗』・『往生絵巻』・『好色』・『藪の中』・『六の宮の姫宮』など多くの作品が、『今昔物語集』のリライトでした。いずれにしても古典を典拠とする手法が芥川の特徴だといえます。

 その中で一番有名な作品が、四百字詰原稿用紙15枚程度の短編『羅生門』でしょう。ただしそれは単純な人気の結果ではありませんでした。『羅生門』がこれだけ有名になったのは、実は教科書に採用されたからだったのです。初めて教科書に教材として掲載されたのは、昭和32年のことでした。その年、明治書院『高等学校総合2』・数研出版『日本現代文学選』・有朋堂『国文現代編』の三種に同時に採用されています。同時期に採用されたものとして、夏目漱石の『こころ』と森鷗外の『舞姫』があります。戦後の高校教育にふさわしいものとして、この三作品が教科書という媒体を通して流通していったのです(近代文学の御三家)。

その後、多くの教科書に採用されたわけですが、中でも注目すべきは、平成15年の『国語総合』において、全教科書会社の教科書に『羅生門』が掲載されるという快挙が生じました。それ以降、日本の高校で学んだほぼすべての人は、『羅生門』を学習していることになります。これに勝る作品はほかにありません。

 ところで古典文学が専門の私が、『羅生門』についていえることといえば、やはり古典の知識に基づくものになります。第一に『今昔物語』と『今昔物語集』の違いはわかりますか。実は私が高校生の時、文学史の本には『今昔物語』として出ていました。それがいつのまにか「集」が加えられたのです。というのもこの作品は一つの物語ではなく、「今は昔」で始まる独立した説話が集められているからです。内容にマッチするように「物語」から「集」に変更されたのです。ですから年齢の高い人ほど『今昔物語』と称するわけです。

 次に『羅生門』という書名ですが、ご存じのようにそんな名前の「門」は歴史上存在しません。肝心の『今昔物語集』には「羅城門」とありますから、「羅生門」は芥川の造語ということになります(「生」の強調)。では「羅城門」はどんな門かというと、平安京の朱雀大路の南端にある正式な門の名称です。「羅城」というのは城壁のことですが、平和な平安京は周囲を城壁で囲んではいなかったので、これは中国の都を模倣して築いたことによるのでしょう。

 もう一つ、古典と現代の知識で意味が変容するものがあります。それは「きりぎりす」です。『羅生門』には「きりぎりす」が二度登場しています。

  大きな円柱(まるばしら)に、蟋蟀(きりぎりす)が一匹とまっている。

  丹塗(にぬり)の柱にとまっていた蟋蟀(きりぎりす)も、もうどこかへ行ってしまった。

 ここでは「蟋蟀」を「きりぎりす」と読ませていますが、これは普通に「こおろぎ」と読むこともできます。「きりぎりす」と「こおろぎ」について、古典では現在の意味と古典では入れ替わっているといわれています。では『羅生門』ではどうでしょうか。「きりぎりす」か「こおろぎ」かを見分ける決め手は、鳴き声だけではありません。「きりぎりす」は夏の虫で「こおろぎ」は秋の虫だということ、もう一つ、「きりぎりす」は昼間に鳴いて「こおろぎ」は夜になくことです。

 では『羅生門』はどうかというと、どうやら季節は秋でしかも時間帯は暮れ方以降ですね。そうなると現在の「きりぎりす」よりも古典としての「きりぎりす」の方がふさわしいことになりそうです。要するに「こおろぎ」の古名としての「きりぎりす」になります。これは芥川に限らないので、「きりぎりす」が登場する近代文学は見直してみる必要がありそうです。古典の知識も近代文学に多少は役に立ちそうです。

 

13 桐壺巻の「疑ひなき儲けの君」をめぐって(古典4)                2025.4.1

 高校で物理の教師をしている長男から、突然電話がありました。勤めている高校の古文の試験問題に、「儲けの君」の意味を問う設問があり、「皇太子」が正解となっているが、それでいいのかというあまりにも唐突な質問でした。

 もちろん問題文は、有名な『源氏物語』桐壺巻の一節です。光源氏誕生の後、弘徽殿腹の一の皇子(後の朱雀帝)のことを「疑ひなき儲けの君」と紹介している有名な箇所です。この部分は高校の古典の教科書にかなりの頻度で採用されているので、記憶されている人も多いかと思います。この「儲けの君」について、ほとんどの教科書は単に「皇太子」のことと注して済ませています。市販の古語辞典を見ても「皇太子」とあるのですから、決して出題及び解答が間違っているわけではありません。

 ろくに『源氏物語』も読んだことのない畑違いの長男が、どうしてそんなことに引っかかったのかわかりませんが、実はここに看過できない問題が潜んでいることも事実でした。たとえ「儲けの君」=「皇太子」であっても、『源氏物語』の文脈として「皇太子」は明らかに誤りになるからです。何故ならば、一の皇子はその時まだ立太子していないからです。「坊がね」(皇太子候補者)であったにせよ、立太子していない一の皇子を「皇太子」とするわけにはいきませんよね。

 というより、まだ立太子していないからこそ、帝に溺愛されている弟の光源氏の存在が不安材料になっているのです。本文に「坊にも、ようせずは、この皇子(光源氏)のゐたまふべきなめりと、一の皇子の女御(弘徽殿)は思し疑へり」とあるのが、何よりの証拠です。もちろん、親王宣下も受けていない更衣腹の光源氏が立太子することなど、歴史的にはありえないのですが。

 そもそも「儲けの君」とは、「皇位継承予定者」という意味です。次の天皇になる予定の皇子ということで、必然的かつ具体的に「皇太子」とも訳されています。なるほど若菜上巻の「春宮かくておはしませば、いとかしこき末の世の儲けの君」云々という例は、確かに「春(東)宮」=「儲けの君」でした。しかしながら「儲けの君」は資格であって、「皇太子」という確固たる地位ではありません。つまり「皇太子」ではない「儲けの君」もありうるのです。だからこそ「疑ひなき儲けの君」(疑いもない世継ぎの君)という持って回った表現が用いられているのでしょう。そうなるとこれは、分割してはいけない(訳しにくい)表現ということになります。

 仮に「儲けの君」だけを切り取って、「皇太子になる予定の人」と訳したら、それこそ大間違いになります。「儲けの君」はあくまで次の天皇になる予定の人であって、決して「皇太子」になる予定の人ではないからです。しかも後に明かされることですが、なんと桐壺帝には皇太子(六条御息所の夫)が決まっていました。

 桐壺巻では触れられていませんが、後の賢木巻において六条御息所のことが、

  十六にて故宮に参りたまひて、二十にて後れたてまつりたまふ。(新編全集93頁)

と記されています。また葵巻にも「故前坊」のことが語られています。現年立では、前坊の娘たる秋好中宮と源氏の年齢差は九歳なので、理論的に前坊は源氏九歳頃までは生存していたことになります。つまり下手をすると東宮が重複して存在していることになりかねません。それを合理的に説明するには、東宮は生存しているものの廃太子させられていたとでも読むしかありません。廃太子されることで、ようやく一の皇子の立太子が可能となるからです。

 そういった描かれざる部分に、忌まわしい廃太子事件(政変)があったというか、この奇妙な表現の裏に潜んでいたと読めたら面白いですね。どうやら桐壺巻は、まだ立太子もしていない一の皇子を、あえて「疑ひなき儲けの君」と表現することで、表面的には光源氏との立太子争いを装いながら、水面下ではもっと複雑怪奇な廃太子事件が進行していたことを暗示していることになります。

 そのからくり(背後に潜む事件)が、こういった特殊表現にこだわることで、かろうじてほの見えてくるのです。物語の特殊表現を深読みするのは、『源氏物語』を読む楽しみの一つでもあります。

 

12「サクラサク」について(番外3)                                                                       2025.3.27

 一昔前(昭和五十年代)まで、大学の入学試験の合否を電報で知らせてもらうことが流行っていました。調べてみたところ、早稲田大学の学生サークルが昭和三十一年に合格電報を始めたそうです。その際、なるべく字数を少なくするために、合格の場合は「サクラサク」、不合格の場合は「サクラチル」という有名な例文が考案されました(ポケベルの走りみたいですね)。

 それを真似て、全国の大学で独自の電文が考案されました。「エルムハマネク」は北海道大学、「アオバモユル」は東北大学、「オチャカオル」はお茶の水女子大学、「テンピョウノイラカカガヤク」は奈良教育大学、「イセエビタイリョウ」は三重大学、「クジラシオフク」は高知大学などなど、いろいろご当地物で工夫されています。一度徹底的に調べてみたら御白いですね。

 その後、電報局が大学と提携して合否電報を受け付けましたが、その電文は単純な「オメデトウ」と「ザンネン」でした。どうやらこれは間違い(勘違い)を防ぐためのようです。「サクラサク」は、おそらく入学式が桜の開花シーズンと重なっていたことによるのでしょう。それもあって、たいていの学校には桜が植えられていました。さらには校章に桜の花をあしらっている学校も少なくありません。日本では明治以降、学校と桜は切っても切れない深い関係になっているようです。

 ところで現在もっとも一般的な桜はソメイヨシノで、気象庁の桜前線の目安にも用いられています。ただしソメイヨシノの歴史は浅く、江戸後期に江戸駒込染井村の植木職人によって作り出された新品種でした。それが早く育つし早く開花するということで、瞬く間に広まったのです。

 特に明治政府の政策で、江戸時代の面影を払拭させることを狙って、城跡や川の土手・堤に積極的に植えさせたことで、全国的な広がりを見せました。それは国内のみに留まらず、アメリカのポトマック河畔にも移植されています。これは初代大統領ジョージ・ワシントンの桜の木を切った逸話と関係しているのかもしれません。ただしソメイヨシノは早く育つ分、木の寿命が短くなり、早く枯れてしまうという欠点を有しているといわれています(条件さえよければ百年以上持っています)。日米友好のために植えられた桜が、六十周年を過ぎたころから枯れ始め、植え替えを余儀なくされてしまったのです。これが山桜であれば二百年以上、江戸彼岸桜であれば五百年以上は持つとされています。日米友好にどうしてそんな寿命の短い桜を贈ったのかと思わないでもありません。

 さらに戦争によって、桜のイメージが変化させられているようです。受験での「サクラチル」は不合格(マイナス)の比喩でしたが、軍国主義では桜のような散り際の見事さが称讃されたからです。そのため靖国神社の桜は英霊の象徴ともみなされました。

 一方、アメリカでは日本が真珠湾を攻撃して以降、ポトマック河畔の桜を切り倒そうという気運が高まっていました。面白いことに、それを阻止したのは韓国の李承晩初代大統領でした。李承晩は、ソメイヨシノは韓国の済州島の王桜が原木だと主張し、結果的にソメイヨシノを救ったのです。もちろん遺伝子検査の結果、両者が別種であることは既に確認されています。韓国の言い分は間違っていたのです。

 もともとソメイヨシノは、人間の手によって大島桜と江戸彼岸桜を交配して作り出された、いわゆるクローンであり、種からは育てられないという特殊事情がありました。すべては挿し木・接ぎ木によって増やさざるをえないのですから、植木屋さんにとっては好都合(収入源)かもしれません。

 さて、最近は異常気象が続いており、入学式に桜が咲いていないこともよくあるので、桜と入学式の関連もだいぶ薄らいできました。それ以上に問題なのは、四月入学という古くからの制度です。それは必ずしも国際ルールではなく、むしろ世界的には九月入学が一般的なようです。実は日本でも、明治初期には九月入学でした。ところが政府の予算編成が四月になったことで、学校の入学時期も四月に変更させられたのです。日本国内だけならそれで問題にはなりませんが、外国に留学したり、外国人留学生を受け入れようとすると、半年間待たなければならなくなります。それは未来ある若者にとって大きなロスでしょう。

 そのずれを解消するため、九月入学・九月卒業が叫ばれつつありますが、いまだに主流にはなっていません。仮に大学だけを九月入学にすると、今度は日本の高校の卒業時期とずれてしまうからです。もし九月入学が本格化したら、「サクラサク」では季節外れになるので、新しい合格電報の例文を作らなければなりません。九月は菊のシーズンですから、スライドさせると「キクサク」になります。しかし四文字では語呂が悪いので、「キクカオル」あたりではどうでしょうか。

 

11 「夜ごはん」をめぐって(日本語3)                     2025.3.18

 平成5年に出版された『あさごはんひるごはんばんごはん』(今井祥智作)という絵本を知っていますか。三匹のかわいい猫たちが活躍するお話ですが、その名前が「あさごはん」「ひるごはん」「ばんごはん」だったのです。三匹目の猫は「ゆうごはん」「よるごはん」ではなく「ばんごはん」でした。

 さてみなさん、「夜ごはん」という言葉を聞いたことありますよね。あるいは口にしたことがありますよね。特に外国人留学生と話していると、時々耳にしておやっと思うことがあります。また日本人でも、若い人は普通に使っているかもしれません。では「夜ごはん」は、日本語として間違っているのでしょうか、それとも許容される表現なのでしょうか。それについて考えてみましょう。

 そもそもご飯は一日に三回食べるので(昔は二回)、その三回にそれぞれ名前が付けられています。三回の食事のうち、朝や昼は言い方が、

  朝ごはん・朝食・朝めし・朝餉

  昼ごはん・昼食・昼めし・昼餉

に固定していて、違和感を抱いたことはありません。なお「昼ごはん」だけは、単に「お昼」でも十分通用しています。

 それに対して夜はというと、

  夕ごはん・夕食・夕飯・夕餉

  晩ごはん・晩食・晩飯・晩餉・晩餐

の二種類があります。「晩食」はあまり耳にしないかもしれませんが、夏目漱石の『門』に出ています。また「晩餉」ともいいます。ただしこの場合、「ばんげ」ではなく「ばんしょう」と読んでください。もっとも泉鏡花は、『遺稿』の中で「晩餉」を「ばんげ」と読ませています。なお永谷園のインスタントみそ汁は、「あさげ」「ひるげ」「ゆうげ」となっており、「ばんしょう」はありません。

 もう一つ、晩には「晩餐」という大げさないい方もあります。これは逆に「朝餐」「昼餐」とはいわないようです。かろうじて昼には「午餐」といういい方があります。「午」は旧暦の時刻で、午前十一時から午後一時までのことです。それが現在でも正午(午の正刻)として残っています。

 問題の「夜ごはん」は、かなり新しく言い出された表現のようです。そのため年配の人には、幼い言い方(幼児語)と受け取られているようです。その幼児語を留学生に教えるのはいかがなものでしょうか。似たような言い方に「夜食(やしょく)」がありますが、これは「晩ごはん」を食べた後に食べるものなので、意味が違っていますね。

 ではどうして「夕」「晩」に「夜」が入り込んできたのでしょうか。少し過去に遡って考えてみましょう。かつての「夕ごはん」は、電灯が整備されていなかったこともあって、まだ明るいうちに食べていました。ですから明治までは「夕」が主流だったのです。ところが明治になってランプや電灯が家庭に普及したことで、暗くなってからでも食べられるようになりました。そのため「夕」よりも「晩」の方が時間的にふさわしいと思われたのか、「晩ごはん」が急浮上してきました。今では「晩ごはん」の方が一般的になっています。

 「夜ごはん」はもっと新しくて、第二次世界大戦以降とされています。あるいは「夜のごはん」の「の」が取れたのかもしれません。面白いことに、高年層は「夕ごはん」、中年層は「晩ごはん」、若年層は「夜ごはん」と、年齢によって三層に分かれているという報告(統計)もあります。となると、いずれ「夕ごはん」は死語になるかもしれませんね。

 「夜ごはん」は必ずしも間違ったいい方ではないのですが、それに対して違和感を抱く人たちが少なからずいることも間違いありません。その証拠に、つい少し前まで国語辞典の見出しにもありませんでした(日本国語大辞典にも出ていません)。最近ようやく取り入れられているようで、『デジタル大辞泉』には「比較的近年になってできた語とされる」とわざわざ説明されていました。あるいは「夕ごはん」と「晩ごはん」の中間的なイメージを有しているのかもしれません。

 ということで、まだ完全には市民権を得ているわけではありませんが、定着するのは時間の問題でしょう。その証拠に、既に「夜(よる)飯」という言い方も「夜ごはん」の俗語として使われ始めています。これも時代の波でしょうね。

10「白熊のやうな犬」をめぐって(近代3)                                                               2025.3.11

 宮沢賢治は新しもの好きでした。ですから賢治の童話には、マザーグースなど外国文学の知識がふんだんに用いられています。童話とはいっても、当時の子供たちには到底理解できないようなことが多かったはずです。しかも、やさしいと思われている賢治の作品には、辞書に載っていない独自のオノマトペが山ほど使われています。意味を説明しようにも、調べても出てこない造語ですから、これは先生泣かせです。それもあって、賢治が生きていた頃には、作品はほとんど評価されていませんでした。賢治が高く評価されるようになったのは、むしろ近年に至ってからといった方がいいかもしれません。

 ここでは『銀河鉄道の夜』と同じく有名な『注文の多い料理店』を題材にして、賢治の新しもの好きを見てみましょう。この『注文の多い料理店』は、賢治の生前に刊行された数少ない作品の一つですが、その広告チラシの中には、「少女アリスが辿った鏡の国」という文章があります。これはもちろん『鏡の国のアリス』のことですが、果たしてこの当時どれだけの人がアリスの話を知っていたでしょうか。また『注文の多い料理店』には、西洋レストランらしく「クリーム」(校本宮沢賢治全集十一33頁)・「サラド」(36頁)・「ナフキン」(同)といった片仮名の外来語が意図的に使われています。そういったものにしても、当時どれだけ一般的だったかわかりません。むしろ当時の読者は珍しい言葉に戸惑っていたのではないでしょうか。

 ここではそういった横文字ではなく、「白熊のやうな犬」という一般的と思える表現に注目してみます。みなさんは「白熊のやうな犬」とあったら、一体どんな犬を思い浮かべますか。まず「白」とあるのだから、毛の白い犬でしょうね。もちろん「白」は、昔話「花咲爺さん」に登場している犬の「白」(ポチは近代的な名)とも通底しており、神の使いのような神聖な存在とも言えます。一方、「熊」は大きな・獰猛なというイメージですから、「白熊のやうな」とあれば白くて大きな犬が想像されます。それなら「白い熊のやうな」としてもよかったはずです。というより「白熊」と「白い熊」では意味が異なりそうです。

 この犬は猟犬でしょうから、秋田犬がふさわしいかもしれません。もっと大きい犬となると外来種になります。そのことは犬が突然死んでしまった時、飼い主の二人が、「じつにぼくは、二千四百円の損害だ」「ぼくは二千八百円の損害だ」(校本十一巻28頁)と残念がっていることからも察せられます(ここに犬に対する愛情は感じられません)。

 さて肝心の「白熊」ですが、今でこそ「白熊」は「ホッキョクグマ」の別称として一般にも知られています。京都・岡崎の動物園にも飼われているし、エアコンのテレビコマーシャルでも有名です。しかし『注文の多い料理店』が書かれた頃はどうだったのでしょうか。この作品は大正十年十一月十日に書かれ、二年後の大正十三年十二月に出版されています。その賢治が「白熊」を見られるとしたら、真っ先に上野動物園が思い浮かびます。彼が動物園を意識していたことは、『月夜のけだもの』という未完の作品の改訂原稿に、「わたくしはそのころ上野の動物園の看守をしてゐました」(校本十一巻469頁)とあることから察せられます。しかもその中に「白熊」も登場していました。

 幸い『上野動物園百年史』によれば、その当時、ドイツの動物商ハーゲンベックから購入した二頭のホッキョクグマがいたことがわかりました。これを賢治が上野の動物園で見た可能性は高いようです。しかし話はそれだけでは解決しません。やっかいなことに、当時もう一種、別の「白熊」が動物園にいたからです。それはニホンツキノワグマなのですが、ただのツキノワグマではなくアルビノでした。明治三十二年に新潟県から白いツキノワグマが贈られ、それがなんと昭和七年まで三十三年間も飼育されていたのです。

 こういったことを踏まえた上で、当時の人は「白熊のやうな犬」という表現から、どのようなイメージを思い描いていたのでしょうか。『注文の多い料理店』が書かれた当時、上野動物園の白熊は既に有名だったのかもしれません。当然、上野動物園に行ったことのある人なら、そこに二種類の白熊がいることもわかっていたでしょう。それでも日本中の人々がホッキョクグマを普通に見知っていたとは思われません。つまり「白熊のやうな犬」という表現だけでは、到底読者に共通のイメージ(大きさ)を印象付けるのは不可能だったのです。たとえ上野動物園に馴染みのある人でも、どちらの「白熊」のことなのか判断できません。

 結局、賢治が「白熊のやうな犬」に込めた意図は不明と言わざるをえません。これを含めて賢治の童話は、当時の人の知識や理解を超えたものが少なからず内包されており(時代を超えており)、だからこそ生前には受け入れられず、近年になってようやく再評価されるに至ったのです。いくら面白いからといって、賢治の作品を甘く見てはいけません。

 

9 桐壺巻の「いづれの御時にか」をめぐって(古典3)                2025.3.4

 『源氏物語』桐壺巻の「いづれの御時にか」という冒頭部分は有名ですよね。だからといってここをあっさり読み飛ばしてはいけません。ここに作者(紫式部)の創意工夫が凝縮されていることを知ってほしいのです。

 まず、「昔」や「今は昔」でないことに注目して下さい。従来の物語の伝統的な冒頭は「昔」あるいは「今は昔」であり、そして必ず文末に助動詞「けり」(伝承過去)が用いられていました。例えば『竹取物語』は「今は昔、竹取の翁といふ者ありけり」ですし、『伊勢物語』も「昔、男、うひかうぶりして、奈良の京春日の里にしるよしして、狩にいにけり」でしたね。『うつほ物語』も「むかし、藤原の君ときこゆる一世の源氏おはしましけり」です。これらはみな物語の冒頭形式を踏襲しているのです(すべて男性作家の作品です)。

 もちろんここに用いられている「昔」や「今は昔」は、決して限定された過去ではありません。ですから間違っても「それはいつごろ?」などと質問しないでください。むしろ時間と空間を越えて、日常から物語(非日常)の幻想世界へと誘う呪文、あるいは語り手と聞き手の暗黙の了解事項と思ってください。それを近代的に〈話型〉と定義してもかまいませんし、物語の約束事(古代性)と思ってもかまいません。これがきちんと守られているからこそ、読者はその語り出しを聞くことによって、安心して物語世界に入り込むことができたのです。

ところが『源氏物語』は、その伝統的なパターンを破って、いきなり「いづれの御時にか」と天皇の御代から語り出しました。おそらく当時の読者は、これを読んで(聞いて)大いに驚いたに違いありません。しかし現代の読者(みなさん)は、この冒頭表現を見ても驚きませんよね。特異な冒頭であることにすら気付いていませんよね。それでは最初から『源氏物語』の読者としてふさわしくないことになります(読者失格!)。それほどこの書き出しは斬新なのです。

 それだけではありません。「いづれ」という疑問を含む設定によって、一種の〈謎解き〉の興味も付与されています。物語が展開される中で、これは光孝天皇の御代なのか醍醐天皇の御代なのか、それとも一条天皇をモデルにしているのかなど、さまざまに推理を働かせるからです。すぐに物語の主人公・光源氏を紹介せず、どの御代の天皇であるかを問いかけるのは、『源氏物語』が歴史性(天皇制)を重んじているからでもあります。

 この特異な冒頭表現に関しては、白楽天の「長恨歌」冒頭の「漢皇色を重んじて傾国を思ふ」が踏まえられているといわれていますが、どうでしょうか。むしろこれが新しい試みであり、それによって後宮における秩序の乱れを意図的に語り出そうとしていることを認識してください。その上で、天皇の寵愛を一身に受ける桐壺更衣が紹介されます。もちろん後宮は秩序を重んじる社会です。というより、後宮というのは統治の象徴でした。後宮の女性達の背後には、政治に関与しうる実力を有する男性官僚達が存在しているからです。だから天皇はその女性達のバックを配慮しつつ、ヒエラルキーに応じて愛を分かち与え、彼女達を巧みに管理・操縦しなければならないのです。後宮は政治の場の延長・象徴でもあったのです。

 それにもかかわらず、後見のいない身分低き更衣が天皇の寵愛を独占するというのでは、収まりがつきません。そのため更衣が天皇に愛されれば愛されるほど、後宮におけるいじめは激しさを増します。そして結果的に、天皇の寵愛がかえって更衣の寿命を縮めることになるのです(愛は殺人?)。『源氏物語』は、決して個人的な恋物語を描いてはいないことを理解してください。

 これが従来のような「昔」始まりであれば、読者は語り手に対してただ相槌を打つだけでよかったのですが、『源氏物語』では最初から〈なぜ?〉という疑問を突きつけられることになります。それによって繰り返し読者の教養や人生経験が、物語の読みへ反映させられるのです。あなたならどう考えますか、この問いかけこそが『源氏物語』から読者へのメッセージなのです。そしてこの問いかけの答えを考えることが、『源氏物語』を読むことでもあります。もちろん唯一の正解などありません。答えは読者の習熟度(教養の差)によって変わるからです。

 ただし物語とのキャッチボールは、原文でしかできません。現代語訳では一方通行(受け身)だからです。残念ながら、大河ドラマでも不可能でした。今まで現代語訳で満足していたあなた、それで『源氏物語』をちゃんと理解していると思っていたあなた、あなたは大きな勘違いをしています。それ以上に損をしています。是非原文を読んでください。

 なお『源氏物語』に興味のある方は、とりあえず吉海直人著『源氏物語入門』(角川ソフィア文庫・令和3年刊)をお勧めします。騙されたと思って読んでみてください。

8 国歌「君が代」について(番外2)                                                 2025.2.25

 日本の国歌に制定されている「君が代」について、みなさんはどの程度のことをご存じですか。ここでその歴史を少しばかり辿ってみましょう。まず出典ですが、一番近いのは平安時代の『古今集』賀歌の巻頭にある、

  我が君は千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔のむすまで(三四三番)

です。これは「題知らず・読人知らず」の歌ですが、年賀に天皇の長寿を讃美・祝福したものと考えてよさそうです。なお初句は「我が君は」とあり、「君が代は」という本文異同は認められません。

 この歌は、朗詠に適した祝賀の歌ということで、以後いろんな歌集に再録されています。その一つが藤原公任撰の『和漢朗詠集』でした。その鎌倉時代の写本に初めて「君が代は」という本文が登場しますが、主流は依然として「我が君は」でした。それが江戸時代になると、狭義的・主観的な「我が君は」より広義的・客観的な「君が代は」の方が使い勝手がよいということで、広く流布していきました。江戸時代において「我が君は」から「君が代は」へ変遷したことをまず押さえてください。

 そして明治維新の後、日本に国際化の波が押し寄せてきました。そうなると対外的な外交儀礼の上で、どうしても国歌のようなものが必要になってきます。最初は薩摩(鹿児島)という小さな世界でのことでした。当時薩摩に来ていたイギリス歩兵隊の軍楽隊から、日本を代表するような曲はないのかと打診されたことがきっかけだったようです。それまで鎖国していた日本は国歌を持っていなかったし、持つ必要性も感じていませんでした。

 そこで当時、薩摩の歩兵隊長を務めていた大山弥助(巌)は、自ら愛唱していた薩摩琵琶の「蓬莱山」という曲の一部である「君が代」を推薦しました。それは歌の中に自分の名前である「巌」が入っているからともいわれています。いずれにしても「君が代」が国歌となる道筋を付けたのは、この大山巌という個人だったのです。その歌詞にイギリス海軍の軍楽隊長フェントンが曲を付けたのが最初の「君が代」でした。それは明治三年のことです。しかし歌詞と曲がしっくりしていなかったので、改めて雅楽課に作曲の依頼がありました。もしこれがしっくりしていたら、外国人作曲の日本国歌になるところでした。

 結局、雅楽課の奥好義が日本古来の旋律をもとにまとめたものを、上司の林広守が補作して曲として完成させ、明治十三年に演奏しています。これが現在の「君が代」の始まりとされているものです。そういった経緯があってか、「君が代」の作曲者を林広守としているものもあります。これに洋学の和声を付け楽団用に編曲したのは、ドイツ人のフランツ・エッケルトです。「君が代」は、国歌制作という意識が希薄な中で誕生したのでした。

 以後、これを国歌として扱うことがしばしばありました。明治二十六年の文部省告示にも「国歌君が代」と書かれています。しかし正式に制定されないまま、オリンピックなどのスポーツ競技の優勝者を称える際、あるいは小中学校で式典が行われる際に「君が代」が歌われてきました。昭和二十年まではそれで何の問題もなかったのです。

 ところが第二次世界大戦敗戦に、軍国主義・天皇制に対する反省があり、しかも新憲法で天皇が国の象徴と据え直されたことから、学校で「君が代」を斉唱することの是非が激しく議論されました。これは政治・思想教育に関わることですから、民主主義国家としては当然でしょう。日教組(日本教職員組合)の抗議運動は今も続いています。その際、「君が代」に代わる新たな国民国歌制定の運動もありました。最終的には国旗及び国歌に関する法律によって、「君が代」は日本の国歌と制定されたのです。なんとそれは遅れて平成十一年八月のことでした。その際、「君が代」は天皇のことではなく「我が国」のことだという新解釈も示されています。

 こうしてその公布日である八月十三日が、「君が代」記念日になりました。「君が代」が行進曲に向かないのは、日本が革命によって独立した国ではないからです。むしろおごそかでゆったりしているところが、日本の国歌の最大の特徴ともいえます。なお古関裕而が作曲したオリンピックマーチの最後には、「苔のむすまで」のメロディが見事に取り入れられています。お気づきでしたか。

 ついでながら「君が代」は、世界の国歌の中で一番古い歌詞です(千百年以上前)。また歌詞が三十一文字しかない(二番がない)ので、世界で最も短い国歌ともいわれています。内容も過去や現在のことではなく、未来永劫まで幸せが続くことを祝福しています。こんな国歌は他に見当たりません。

 

7  国語と日本語の違い(日本語2)                         2025.2.18

 みなさんは国語と日本語の違いがわかりますか。そもそも同志社女子大学日本語日本文学科は、旧来の国文学や国語国文学ではなく、国際社会を意識した日本語日本文学を学科名として選び取っています(同志社大学や京都女子大学は国文学科です)。その大きな柱は「日本語教育」、つまり外国人に日本語を教える教師の育成でした。

 そこで最初にひっかかるのは、日本語教育と国語教育の違いです。国語教育というのは、日本国内の小中高で、日本語を母語とする子供たちに国語という科目を教えることです。そのためには国語の教員免許を取得しなければなりません。それに対して日本語教育は、日本語を母語としない外国人に効率よく日本語を教えることが主眼となっています。これには教員免許がない(いらない)代わりに、日本語教育能力検定試験に合格するか、あるいは日本語教師養成課程を習得する必要があります(最近ようやく国家資格になるようです)。

 要するに同じく教師でも、小中高において日本語を母語とする日本人(ネイティブ)に教えるのか、日本語学校などで日本語を母国語としない外国人(ネイティブ以外)に教えるのかの違いがあります(含帰国子女)。簡単に言えば、英語教師のように外国語としての日本語を教えるわけです。これで少しは日本語と国語の違いがおわかりになりましたか。似たようなものに国史と日本史がありますが、こちらは早々と日本史に統一されています。

 ついでながら、もう一つ大事なことがあります。国語や英語の教師は、自身が教わってきた授業の体験があります。それに対して日本語教育は、当然ながら自身の体験がない場合がほとんどです。日本語はしゃべれるので、日本語を正式に教わる必要がなかったからです。そこに日本語教師と外国人学習者との溝や摩擦のようなものが生じる要素が潜んでいるのでしょう。

改めて両者の違いを辞書的に説明すると、日本語というのは英語とか中国語というように、その国固有の言語のことです。それに対して国語は、各国の言葉がそれぞれその国の国語になります。イギリス人にとっては英語が国語というわけです。ですから日本では日本語が国語と重なることになります。ただしぴったり一致するわけではありません。普通に日本語と言えば、現在日常生活で使われている言葉(主に話し言葉)という意味合いが強いからです。

 それに対して国語は、古い時代の言葉までカバー(網羅)しています。ですから日本語学といったら、古くても明治以降が対象となるのに対して、国語学といったら当然のように上代語まで含まれます。日本語の場合、『万葉集』や『源氏物語』にまで遡る必要はないのです。それもあって、国語ではいわゆる学校文法を教えますが、日本語ではもっと実用的な日本語教育文法になっています。い形容詞・な形容詞(形容動詞)などがその例です。

 ですから、かつては書き言葉で書かれた近代文学など、日本語学の対象とはなっていませんでした。そのかわり、他の言語(外国語)との比較が積極的に行われました。もっとも最近では、青空文庫のような検索に便利なものがあるためか、話し言葉とは異質である小説の例なども、あたりまえのように論文に例文として引用されるようになっています。その妥当性はどこまで考慮されているのでしょうか。

 ここで国語についての大事なポイントを押さえておきましょう。そもそも国語は、明治以降日本全体に通用する標準語のことを指していました。それについては是非井上ひさしの『国語元年』という作品をお読み下さい。江戸時代までの日本は全国の各藩がそれぞれ国を形成しており、その中で生活が完結していたため、強い方言がまかり通っていました。ところが明治になって藩がなくなり、日本が一つの国家となったことで、全国で通用する標準語が要請されたのです。その標準語の教育が現在の国語教育の原点というわけです。出発点における国語という言葉は、辞書的な意味とは違う使われ方をしていたのです。

 それとは別に、法律用語としての日本語と国語は、今もってきちんと使い分けられていません。その証拠に「国語に通じない」(刑事訴訟法)と「日本語に通じない」(民事訴訟法)など統一されることなく使われていることがあげられます。なお文化庁では、国語課の下に日本語教育関連事業がぶら下がっています。

 

6 「タイタニック」と『銀河鉄道の夜』をめぐって(近代2)             2025.2.12

 みなさんは「タイタニック」の映画(1997年)を御覧になりましたか。主演のレオナルド・ディカプリオを含めて、大変評判が良かったようですから、かなりの人が映画館で涙を流したのではないでしょうか。特に大型船が氷山と衝突して沈没しかけた時、船の専属楽団のメンバー達が最後まで演奏し続けるシーンは印象的でした。そしてもういよいよ沈没というクライマックスで、彼らは讃美歌を演奏します。それは有名な讃美歌でした。

 話は変わりますが、みなさんは宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』をご存じですよね。これも非常に有名なので、小さい時に読んだという人が多いと思います。この作品は単なる童話・ファンタジーというより、さまざまな要素が混ぜ合わされている点に特徴があります。ですから、とても子供には理解できない内容といえます。

 例えば『銀河鉄道の夜』には、「ツウィンクル、ツウィンクル、リトル、スター」という「きらきら星」の一節が出てきます。マザーグースに関しては、大正10年に北原白秋がはじめて日本語訳を出版しています。ただし白秋の本には「きらきら星」が掲載されていないので、賢治は原書から引用したのかもしれません。いずれにしても賢治は、当時ようやく日本語訳が出版されるくらいの目新しい舶来の知識を、早々と自分の作品に取り込んでいたのです。そんな中に、次のような文章がありました。

 

 船が氷山にぶっつかって一ぺんに傾き、もう沈みかけました。月のあかりはどこかぼんや  りありましたが、霧が非常に深かったのです。ところがボートは左舷の方半分はもうだめになっていましたから、とてもみんなは乗りきれないのです。もうそのうちにも船は沈みますし、私は必死となって、どうか小さな人たちを乗せてくださいと叫びました。

 

 これは、幼い姉弟を連れて途中から列車に乗り込んできた青年の身の上話の中の一節です。氷山にぶつかったとあるところで、すぐにタイタニック号のことを思い浮かべます。もっとも作品の中には「タイタニック」という言葉は使われていませんし、デ・アミーチスが書いた『クオレ』所収の「難破船」がモデルだともいわれています。しかしタイタニック事件は明治45年(大正元年)に起こっているので、時間的には全く齟齬しません。これが「推量」から「確信」に変わるのは、すぐ後の一節を見た時でした。

 

  私は一生けん命で甲板の格子になったところをはなして、三人それにしっかりとりつきました。どこからともなく三〇六番の声があがりました。たちまちみんなはいろいろな国語で一ぺんにそれを歌いました。

 

 この三〇六番というのは、もちろん讃美歌の番号です。この讃美歌三〇六番が映画で流れていた曲と一致すれば、すべては解決することになります。ところが、今皆さんが使っている讃美歌の三〇六番は、残念なことに曲が違っています。賢治の見た讃美歌が今の本とは違っているかもしれないので、古い讃美歌にあたってみました。

 明治23年の讃美歌を見ると、歌数が少なくて三百番台の歌などありませんでした。そこで大正8年の増補改訂版を見ると、かなり曲が増補されていましたが、やはり違っていました。次に昭和6年の讃美歌を調べたところ、ようやく探していた曲にめぐりあいました。この本にある三〇六番こそが映画タイタニックで流れていた讃美歌で、現行の本(昭和29年以降)では三二〇番になっています。それが「主よみもとに近づかん」(ニアラー・マイゴット・ツージー)でした。これで『銀河鉄道の夜』が引用している沈没船の話が、間違いなくタイタニック号事件であることがわかりました。おそらく沈没のニュースが世界中に報道され、日本でも有名だったのでしょう。沈没船で讃美歌を演奏するのは決して映画の脚色ではなくて、当時の新聞で報道された事実だったのです。賢治がそれを知っていたことは、『春と修羅』という詩集の中に、「タイタニックの甲板でNearer my Godか何かうたふ」とあることによってもわかります。

 さて、ここまでは順調にいったのですが、学問の世界はそんなに甘くありません。実は私は最初、谷川徹三校訂の岩波文庫で『銀河鉄道の夜』を見たのですが、賢治の生原稿では讃美歌の番号のところが二字分空白になっていました。岩波文庫の初版は昭和二六年ですから、おそらく曲名から当時の讃美歌番号であった三〇六番が付け加えられたのでしょう。これは賢治ではなく校訂者谷川徹三の加筆だったのです。

 では賢治は何故歌番号を空白のままにしたのでしょうか。確かなことはわかりませんが、明治23年版では一六九番、大正8年版では二四九番だったものが、昭和6年に三〇六番に変更されたこと、また英語版の讃美歌でも番号が異なっているので、賢治自身どの番号に決定すべきか迷っていたのかもしれません。

 賢治はこの事件から、他人を押しのけてまで生きることより、身をひいて神のもとに召されること、また死を目前にしながらも讃美歌を演奏し続けたことに感動したのでしょう。賢治の脚色といえば、その讃美歌を乗客も一緒に歌うというところにありました。

 

5 桐壺巻の不在めぐって(古典2)                                             2025.2.4

   一巡りしてまた古典です。物語を面白く読むためには、書いてあることをそのまま受け取るだけでは不十分です。何が書かれているかの裏側に、何が書かれていないか(隠されているか)を考えてみなければなりません。学校では出席をとりますが、誰が出席しているかがわかれば、そこから誰が休んでいるかも自ずからわかります。

 私は『源氏物語』を、推理小説の犯人捜しのように読むことを勧めています。推理小説には、必ず犯人捜しの布石が置かれているからです。それに気づかずに素通りしていては、犯人に行き当らないだけでなく、面白く読めないと思うからです。

 では桐壺巻冒頭の本文はどうでしょうか。そこに何が書かれていないかすぐにわかりますか。書いてあるのは「女御更衣あまたさぶらひ給ひける」です。これで後宮に大勢の女性たちが仕えていることはわかります。しかしここで肝心なのは、そこに描かれていないものを見つけることです。

 そもそも後宮には、女御・更衣以外にどんな人が想定できるでしょうか。ちょっと考えてみてください。そうするともっと重要な存在、つまり后(中宮・皇后)が描かれていないことに気づくはずです。おそらくまだ誰も立后していないのでしょう。それがわかると、ここに登場している中の誰が后になるのか、という興味が湧いてきます。

 本命は、いわずとしれた弘徽殿女御です(女御は一人しか登場していません)。ところが一介の桐壺更衣が「すぐれて時めき給ふ」とあって、弘徽殿と張り合っていることがわかります。そうなると、更衣による下克上まで想定されます。とにかく何が書かれていないか、常に考えながら読み進めてほしいのです。

   次に桐壺更衣が御子を出産する場面はどうでしょうか。皇子が誕生した途端、一の皇子のことが語られるのは、これまで皇子が一人しかいなかったからでしょう。二人目の御子の誕生によって、今度はそのどちらが皇太子になるのかという問題が浮上したのです。だからこそ一の皇子の外戚である右大臣が登場しているのでしょう。

   ではこのことから、描かれていないものが何か、おわかりになりますか。そう、大臣は一人ではないですよね。というより右大臣の上席には左大臣がいるはずです。場合によっては太政大臣や内大臣の存在も考えられます。少なくとも左大臣はいます。それにもかかわらず、当分姿を見せません。どうしてなのでしょうか。左大臣は次期皇太子争いには無関心なのでしょうか。

   肝心の左大臣は、源氏の元服に至ってようやく登場します。となると左大臣の存在は、今まで意識的に伏せられてきたとしか思えません。右大臣の存在があって、その上席たる左大臣が登場しないのは、どう考えても不自然だからです。おそらく弘徽殿と桐壺更衣の対立の構図を強調するために、意図的に描かれなかったのでしょう。あるいは物語の背後で、左大臣が桐壺更衣をバックアップしていたのかもしれません。あるいは弘徽殿の立后を阻止・延引させていたのかもしれません。左大臣ならそんなことも可能だからです。最終的に源氏の後見役を引き受けたのも、その延長線上で考えられます。

   そんなことをあれこれ考えていると、ふと皇太子が不在であることに気づきます。桐壺帝が即位する際、誰も立太子していないのでしょうか。実は後になって前坊(廃された皇太子)の存在が明らかにされます。皇太子は確かにいたのです。

   もう一つ、目立たないけれども重要な不在がありました。それは、桐壺更衣の女房達が一人も描かれていないことです。もちろん後宮における権力争いですから、弘徽殿と桐壺更衣の一騎打ち(直接対決)で事足りるのかもしれません。あるいは後宮における桐壺更衣の孤立を強調するために、あえて側近の女房を描いていないのかもしれません。

   それにしても臨終という大事な場面に、桐壺更衣の乳母さえ登場していないのは変です。普通だったら桐壺更衣の一番の身内・側近として、母北の方以上の乳母の悲しみが描かれてもおかしくありません。しかしながら、結局桐壷更衣の乳母は、物語に一度も姿を見せることはありませんでした。「はかばかしき御後見しなければ」ということからは、父大納言の死去のみならず、乳母の不在までも読み取らなければならなかったのです。

 いかがですか。不在ということを意識しただけで、物語の読みがぐっと深まったとは思いませんか。

 

4 「日本」は「にっぽん」か「にほん」か(日本語1)                2025.1.28

 世界中の国の中で、自国名の読み方が統一されていない国があるというのは、珍しいことではないでしょうか。これは国民性あるいは日本語の特徴なのかもしれませんが、日本人は案外曖昧なところがあって、自国名について「にっぽん」でも「にほん」でもどっちでもいいと思っている人が多いようです。みなさんはどうですか。

 そういえばアメリカのことを日本人は「米国」と書き、イギリスのことを「英国」と書いていますが、これは日本以外では通用しない表記です。同様のことが日本語教育の現場で生じています。外国人留学生の悩みとして、「日本」をどう読めばいいのかわからないという声がよく聞かれます。もちろん日本語教師はきちんと教えているのでしょうが、ひとたび町へ出た途端、まったく不統一で混沌としていることにいやでも気づかされます。

 たとえば福澤諭吉が印刷された一万円札には「Nippon(Ginko)」とあります。「日本放送」は「ニッポン(ホウソウ)」、「日本郵政」は「ニッポン(ユウセイ)」です。またサッカーなどのスポーツでは、「日本代表」を「ニッポン(ダイヒョウ)」としています。それに対して「日本酒」は「ニホン(シュ)」、「日本航空」は「ニホン(コウクウ)」、「日本大学」は「ニホン(ダイガク)」、日本語日本文学科は「二ホン(ゴ)ニホン(ブンガッカ)」ですね。どうも読み方に法則などなさそうなので、これを留学生に納得させるのは大変です。

中でも面白い現象として、東京で地下鉄に乗って「日本橋」駅で降りると、「Nihombashi」と案内板に書かれています。これが大阪に行くと「Nippombashi」となっています。どうやら関東では「にほん」派、関西では「にっぽん」派のようです。現状でこのように二つの読みが混在しているのですから、これを統一しようというのがそもそも無理な相談です。

 では何故このような二通りの発音が存在するのでしょうか。歴史を遡ると、古く日本は「倭」の国であり、それを「やまと(大和)」と読んでいました。後に「日の本」「日本」という表記が用いられるようになりましたが、それは国内向けというより国外向けでした。「日」は漢音「ジツ」、呉音「ニチ」です。「本」は漢音・呉音とも「ホン」としか読めません。「日本」は呉音の字音読みとしてまず「にっぽん」と発音されたものが、次第に促音を発音しないやわらかな「にほん」に変わったという説が有力です。それとは別に、平安時代は貴族の大和言葉として「にほん」とされ、鎌倉時代になって武士が「にっぽん」というようになったという説もあります。これなら関東と関西の違いということも説明がつきます。

 いずれにしても、二つの読みは今日まで併用されてきました。近代になって、俄かに統一しようという動きが生じています。昭和九年の文部省臨時国語調査会において、「日本」の読み方は「にっぽん」に統一されました。その際、例外的に東京の日本橋と「日本書紀」だけは「にほん」と読むことを許容しています。それに伴って、外交文書における国号の英文表記も、「Japan」(英語)から「Nippon」(日本語)に変更されました。当時は、日中戦争などが始まろうとしていた時期であり、軍部は「にほん」よりも「にっぽん」の方が力強く(勇ましく)聞こえるからという理由だったようです。「にほん」だと「二本」と同音になって紛らわしいということもあげられます。ただし伝統的な和歌の文化を継承する皇室では、「ニッポン」のような促音は好まれませんでした(非歌語)。

 この文部省臨時国語調査会の決定を受け、帝国議会でも審議されました。戦争中の昭和十六年には、帝国議会で当時の国号「大日本帝国」の発音を「だいにっぽんていこく」と定める検討がなされましたが、最終的には保留のまま法律制定には至っていません。そして第二次世界大戦後の昭和二一年、帝国憲法改正特別委員会において、「日本国」と「日本国憲法」の正式な読み方について質疑がなされた際、金森徳治郎憲法担当大臣(当時)は、「決まっていない」と答弁しています。戦後も読みは不統一のままだったのです。

 その後、昭和四五年七月、大阪万国博覧会を睨んで佐藤栄作内閣は、「日本」の読み方について「にほん」でも間違いではないが、政府は「にっぽん」を使うと閣議決定を行いました。しかしここでも法制化にまでは至っていません。おそらく「にっぽん」とすることで、再び軍国主義化することが懸念・抑制されたのではないでしょうか。

 そして平成二十年には、読みをどちらか一方に統一する必要はないという答弁が行われ、複数の読みを許容することで現在に至っています。これに関してNHKの調査では、「にほん」派が六一%で「にっぽん」派が三七%でした。「にほん」と読む人の方が圧倒的に多いことがわかります。ただし当のNHKは、日本の国名(国号)として、「にっぽん」を採用しています。統一されるのがいいのか、それとも不統一こそが日本の文化なのでしょうか。

 

3 宮沢賢治『銀河鉄道の夜』の本文校訂問題(近代1)                2025.1.21

 近代文学からは、真っ先に『銀河鉄道の夜』を取り上げました。宮沢賢治の代表作として今も人気が高いからです。でも賢治が生きている間、出版されることはありませんでした。それもあって賢治は、十年近く原稿に手を入れ続けています。というより、複数の草稿が残されていました。

 賢治の原稿(遺稿)は、すべて弟の清六に託されており、亡くなった翌年の昭和九年には、文圃堂から全集全三巻として刊行されました。ただし残されていたのは『銀河鉄道の夜』の草稿であり、完成原稿ではありません。文圃堂版が刊行された時点では、そういった草稿の研究はまだ行われていませんでした。

 その後、研究者による綿密な本文研究が行われたことで、大きく三度にわたる改稿が確認されました。それを便宜的に第一次稿から第四次稿と分類し、その成果は昭和四十九年に筑摩書房から『校本宮澤賢治全集』として刊行されました。この校本には第一次稿から第四次稿までの『銀河鉄道の夜』の四つのバージョンがすべて収められており、研究者必携の本となっています。

 そこで明らかになったのは、第一次稿から第三次稿までにはさほど大きな改稿がないこと、第四次稿においてかなり大きな改稿が行われているということです。たとえば冒頭の三章分、学校の場面からジョバンニが活版所に行って仕事をし、家に帰って病身の母親と話すという展開、及び結末のカムパネルラが川で行方不明になる話は、第四次稿において増補されたものなので、それ以前にはありません。逆に第三次稿まであった、銀河鉄道の旅はブルカニロ博士の実験によって主人公が見た夢だったという設定は、第四次稿において削除されています。要するに第四次稿にブルカニロ博士は登場しないのです。

 これに基づき、第一次稿から第三次稿までを初期形、第四次稿を最終形もしくは決定稿とされました。これは必ずしも完成形ではないのですが、必然的に第四次稿を底本とした本文が研究論文に引用されるようになっています。賢治の改稿の意図に関しては、初期形が自己犠牲の精神を高らかに謳っているのに比して、最終形はむしろ「雨ニモマケズ」にも共通する「祈り」がテーマになっていると分析されています。そのため「ほんとうのさいわい」が何かが曖昧になってしまったという意見もあります。

 ところが文圃堂版全集の本文が第四次稿ではなかったこともあって、初期形の『銀河鉄道の夜』に慣れ親しんできた読者にとって、ブルカニロ博士の登場しない『銀河鉄道の夜』は到底受け入れがたいものでした。要するに第四次稿が決定版になることはなかったのです。そのため『銀河鉄道の夜』は、便宜的に初期形と最終形の二つを一緒に掲載するという、きわめて異例な形で刊行されています(斎藤茂吉の『赤光』もこれに類似しています)。

 それだけではありません。苦肉の策というか、最終形を底本にしていながら、賢治が削除したブルカニロ博士を復活させるという、いいとこ取りの変形バージョンまで編み出されました。これは作者である賢治のあずかり知らぬ、後人によるリライトあるいはミックス版ともいえます。その代表例が谷川徹三校訂の岩波文庫版でした。これは明らかに谷川徹三の文学観が入り込んだもので、いわゆる純粋な校訂とは異質のものです。ですから岩波文庫本を底本として、宮沢賢治の執筆意図を研究することはできません。できるのは谷川徹三の校訂意図の研究です。もちろんそれも研究として成り立ちます。ただしそういった経緯がわからないまま、安易に岩波文庫を使用するのは極めて危険です。

 といっても、岩波文庫版は一般読者に人気がありかつ安価なので、このバージョンが好きだという読者も少なくありません。現在でもそれなりに人気があるので、再版され続けています。ですから『銀河鉄道の夜』を読んだり研究する際は、何を底本としているかをきちんと認識する必要があります。特に岩波文庫は要注意です。やっかいですね。

 

2 桐壺巻の「あらぬが」の「が」をめぐって(古典1)                                                   2025.1.14

 古典は光る君への余韻として、『源氏物語』から始めます。みなさんは桐壺巻の冒頭部分にある「いとやむごとなき際にはあらぬが」の「が」について、高校古文の授業で「これは逆説の接続助詞ではなく同格の格助詞」と習いませんでしたか。かつて高校生だった私は、「けれども」と逆説で訳した方がわかりやすいのに、どうして「人で、人」という日本語としてすっきりしない訳にしなければならないのか疑問でした。先生に質問すると、「つべこべいわずに覚えろ」といわれたのを覚えています。今からもう五十年以上も前の話です。

 普通の高校生だったらそれで引き下がるかもしれませんが、私の心はずっとくすぶり続けました。ひょっとするとこのことが、古典を研究するきっかけになっているのかもしれません。後になって石垣謙二という研究者が、「主格「が」助詞より接続「が」助詞へ」(『助詞の歴史的研究』岩波書店・昭和30年)という論文で、平安中期頃の助詞「が」に接続助詞として用いられた例は見出だせないので、これは格助詞とするべきだと論じていることを知りました。

 要するに古文の教科書はこの石垣説を踏まえることで、同格の格助詞として統一されていたわけです。しかし古文の先生から、そういった経緯についての説明は一切ありませんでした。最近は、

接続助詞の「が」は格助詞が元になっており、接続助詞としての「が」は平安時代末期以降になってから用いられるようになった。

と説明されることもあるようです。いい時代になりましたね。ただここに問題がないわけではありません。というのも石垣氏自身、

主格「が」助詞より接続「が」助詞への発展は実に剩す所一歩であり、接続「が」助詞の発生に対する準備は茲に全く完了したと称する事が出来るのである。

とも述べられているからです。

逆説の「が」の扱いについては、文法的に正しいか間違っているかではなく、時間的に早いか遅いかだったのです。ということは、仮に『源氏物語』と同時代の作品の中に接続助詞の用例が見つかったら、たちまち逆説で訳すことも許容されることになります。そもそも同格の「が」の用例は少ないし、後世には逆説の方が主流になるのですから、後世の人が逆説で解釈するのも当然です。私など一歩踏み込んで、桐壺巻の「あらぬが」こそは逆説の接続助詞の初出例ではないかとさえ考えています。

幸いそれは私だけの妄想ではありませんでした。田村隆氏(東京大学)も「いとやむごとなききはにはあらぬが―教科書の源氏物語」(語文研究104・平成十九年十二月)及び「『桐壺巻』の練習問題」(高校国語20・平成二五年)という論文において、懐疑的な見解を述べています。もっとずっと以前に玉上琢弥氏も、

  「あらぬが」の「が」は、この当時接続助詞としてはっきりした用例が見られないので、格助詞として見る、とするのが国語史での通説であるが、格助詞という分類に拘泥して、「たいして重い身分ではない方が、めだって御寵愛の厚い、ということがあった」などと日本語らしくない訳文をつくる必要はないと思う。国語史家でも格助詞から接続助詞に移行するその中間の時代であると考えているのだから。

と疑問を投げかけていました。それに賛同したのか、瀬戸内寂聴の現代語訳や橋本治の『窯変源氏物語』などでは、堂々と逆説で訳されています。

 こういった解釈の揺れが生じる以前、大学入学試験問題として、

  いづれの御時にか、女御、更衣あまた侍ひ給ひける中に、いとやむごとなき際にはあらぬが、すぐれて時めき給ふありけり。

という問題文があげられ、

【問題】下線部の「が」について、次の空欄を文法用語で補え。

  この「が」は、イ[   ]を示すロ[   ]と考えられることもあるけれども、今では一般にハ[   ]を示すニ[   ]とされている。

という設問が出されたことがあります。これに対する模範解答は、

  イ=逆接  ロ=接続助詞  ハ=同格  ニ=格助詞

でした。

正解は高校で教えられているままなので、当時は入試として疑問視されることはなかったようです。しかし今だったら、入試問題として出題することはできないかもしれません。あえて出すとすれば、「高校では逆説の接続助詞ではなく同格の格助詞と教えられているが、それについて意見を述べなさい」です。さてみなさんはどのように解答するでしょうか。

1 令和七年は巳年です!                              2025.1.7

 まずは干支のことから始めましょう。今年の干支は乙巳(きのとみ)です。十二支の六番目ですが、どうして六番なのかは不明です。そこで漢字から攻めてみます。まず「乙」は未だ発展途上の状態を表し、「巳」は植物が最大限まで成長した状態を意味します。この干支の組み合わせによって、これまでに蓄積してきた努力や準備がようやく実を結び始める時期であることを示唆します。中国の『漢書』律暦志にも、それまでの生活に終わりを告げて、新しい生活が始まると書かれています。巳年は成長と結実の時なのです。

実は私も巳年生まれなので、今年は年男になります。もっとも昔は還暦までで、その後の年男など想定されていなかったようです。無事に正月を迎えられただけで儲けものなのです。なお年男にはもう一つ、正月の行事を担う意味もあります。正月行事の年男は、門松の準備や神棚の飾り付け、若水を汲むなど、正月の歳神様を迎える役割を担っていました。また旧暦では、節分の行事も正月行事の一部とされていたので、年男が豆まきも担当していました。それが新暦によって正月と節分が分離したため、年男による豆まきが独立した風習のように思われているのです。

 ところで日本では、『古事記』にあるヤマタノオロチ退治をはじめ、多くの神話や民話に登場しています。ただしキリスト教によってか、蛇は不気味だとか恐ろしい存在のように受け取られています。それと反対に、脱皮を繰り返して成長するところは、復活・再生・不老長寿や金運向上のシンボルとして、古来縁起の良い生き物ともされてきました。特に白蛇は弁財天(弁天様)のお使いとされており、信仰の対象として幸福をもたらすシンボル(神の使い)として尊ばれています。言語遊戯的に、「巳」は「実」と同じ読みなので、そこから「実(巳)入りがいい」ともいわれています。縁起担ぎに脱皮した蛇の抜け殻を財布に入れたり、蛇の皮製の財布を金運のアイテムとしているのはそのためでした。

 なお金運を願う人は十二日に一度めぐってくる「巳の日」を選んで、神社にお参りするといいとされています。宝くじ売り場では、「本日巳の日」と張り紙を出しているところもあるそうです。この「巳の日」の中でも特に金運に良いとされるのが、六十日に一度の「己巳(つちのとみ)の日」です。その日、各地の弁天様は多くの参拝客で賑わうとのことです騙されたと思ってやってみませんか。そうそう京都左京区鹿ケ谷(哲学の道)にある大豊神社は、狛犬ならぬ狛ねずみで有名ですが、実は医薬の祖神である少彦名命も合祀されており、非常に珍しいとぐろを巻いた狛へびがあります。本殿に向かって右側の蛇が白色で、口を開けています。左側の蛇は黒色で、口を閉じており、ちゃんと阿吽の姿をして。今年の心霊スポットですから、是非金運上昇のお参りに行ってみてください。

 ついでに蛇に関する質問です。みなさんは蛇が出てくることわざをいくつあげられますか。「蛇足」は中国の故事です。「竜頭蛇尾」は期待外れの感があります。「藪蛇」は「藪をつついて蛇を出す」のことで、やらなくてもいいことです。「蛇に睨まれた蛙」は身がすくんで動けなくなります。「蛇の道はへび」は同類には同類のことがわかるという意味です。そうそう「虹」が虫偏になっているのは、虹が蛇に見立てられたことによります。そもそも昔は爬虫類と昆虫の区別もできなかったので、蛇も蛙も蜥蜴も蟹も蜘蛛も蚯蚓も蝙蝠も蛤も蛸も蝦も虫偏になっています。というより虫偏は昆虫以外のものも含んでいたのです。

 もう一つ、みなさんは「巳」「已」「己」の違いがわかりますか。三つとも類似していますが、よく見ると縦棒が上までか中までか下までかで読みも意味も違ってきます。「巳」は音読みが「シ」で訓読みが「ミ」です。これが干支の「へび」ですね。「已」は音読みで「き」、訓読みで「すでに」です。三つ目の「己」は音読みが「き・こ」で、訓読みは「おのれ」になります。巳年に関する基礎知識、是非授業で活用してください。質問・お便りなども待っています。