吉海直人の古典コラム *new!!
長らく連載されていた同志社女子大学HP
「教員によるコラム」の続編として、
吉海先生に古典コラムを書いていただけることになりました!どうぞお楽しみに♪
吉海直人(よしかい・なおと)
1953年長崎生まれ。國學院大學大学院博士後期課程修了。博士(文学)。同志社女子大学名誉教授。専門は平安時代の物語及び和歌の研究。
『百人一首の正体』ほか著書多数。
〈吉海先生より〉
女子大学の「教員によるコラム」に以下の項目を掲載しているので、
こちらもお読みいただければ幸いです。
・謎だらけの「偏つぎ」(2024/02/20)
・藤原道長は「三郎」か?―大河ドラマ「光る君へ」第1回を見て(2024/01/09)
・「いづれの御時にか」―『源氏物語』を読むこと―(2022/10/03)
・『源氏物語』は疫病を描かない?(2022/04/13)
大河ドラマを見ている人へ(12)―平安貴族の基礎知識 2024.11.19
「光る君へ」は大石静さんが思いっきり現代劇に近づけているので、非常にわかりやすくなっている反面、読者のみなさんが平安貴族について勘違いするのではないかという不安もあります。そこで今回は、みなさんに平安貴族について少しばかり知っていただければと思って筆を執りました。あと数回で最終回ですから、ちょっと遅すぎるかもしれませんが。
まず現在と違って、平安時代は身分制社会の真っただ中です。原則私のような一般庶民は下僕にも及びません。ほんの数パーセントの貴族だけの世界だということをご理解ください。だから昔は、憧れを抱いて『源氏物語』を読んでいました。ところがドラマは何から何まで現代風なので、貴族の身分の高さが見えにくくなっています。
もちろん平安時代は世界的に見ても平和でした。ドナルド・キーンはここに戦争が描かれていないことを高く評価しています。だからこそ文化が爛熟しているのだし、この時代だから『源氏物語』が奇跡的に書かれたのです。もちろん『源氏物語』に戦争が描かれていないからといって、当時の日本に戦争がまったくなかったわけではありません。至る所で小さな戦いはありました。たとえばドラマでは、眼の治療を兼ねて隆家が長和三年(1014年)に大宰府に赴任していますが、その在任中の寛仁三年(1019年)に刀伊の入寇がありました。その際、隆家は総司令官として見事な采配を振るい、賊を撃退しています(ドラマでも描かれます)。もしこの時のトップが隆家でなかったら、九州一円は占領されていたかもしれません。
もっと身近な基礎知識も紹介しておきます。当時の貴族社会は夫婦別姓でした。藤原道長は源倫子と結婚していますが、倫子は結婚後もずっと源姓のままでした。ということは、亡くなってからも同じ墓には入りません。藤原氏は藤原氏専用の墓所があります。道長は木幡の浄妙寺に葬られています。それに対して倫子は源氏専用の仁和寺に埋葬されています。日本の長い歴史において、現在のような夫婦同姓は明治以降の新しい制度だったのです。
夫婦ということでよく知られているのは、一夫多妻でしょうか。現在は一夫一妻制ですから大きな違いですよね。この「一夫多妻」という言葉について、これではふさわしくないということで、最近は「一夫一妻+多妾」となっています。「多妻」は多くの妻という意味ですが、制度的に正妻は一人で、あとは「多妾」(現代のいわゆる「めかけ」とは違います)であり、正妻と妾妻の間には歴然とした区別がありました。正妻と妾妻の両方に子供が生まれた場合、子供の処遇に差異が生じます。正妻の子は「嫡子」、妾妻の子は「庶子」として明確に区別されるからです。道綱母も兼家の妾妻だったし、まひろも宣孝の妾妻でしたね。
それだけではありません。原則、貴族の妻は自らの実家に住んで、そこに夫を通わせます。その際、正妻の実家は婿を経済的に支え、出世させなければなりません。道長は裕福な倫子の実家に支えられたことが幸運だったのです。ということで、道長はそのまま倫子の家に住み着き、明子のところにはそこから通っていました。生まれた子供はそれぞれの妻の家で育てられますから、正妻の子と妾妻の子の交流は原則ありません。
倫子の子供たちにしても、生まれたらすぐに各自に乳母がつけられ、子供それぞれに女房が雇われます。同腹の兄弟姉妹であっても、一緒に育てられることはありません。それをドラマに当てはめると、まひろの家を仕切っているのは弟惟規の乳母・さとですよね。本来ならばまひろにも娘の賢子にも乳母がいるはずなのですが、母が早くに亡くなったのと同様に、乳母も早くに亡くなったか離反したという設定なのでしょうか。いずれにしてもまひろの家には、もっと女房や家司がいてもいいはずです。たとえ父親が職にありつけなくて貧しいからといって、当時の貴族はこんな庶民的な生活はしていませんでした。
最初からドラマを見ていて気になったのは、まひろが一人で出歩いていたことです。いくら平和な平安時代だといっても、夜には夜盗が徘徊していました。それにもかかわらず、真っ暗な夜にも出歩いているのはちょっとどうかと思います。付け加えると、ドラマの人たちはみんなスタスタ歩いていますね。歩くリズムが現代風で、とても平安時代の歩き方とは思えません。これは衣装というか袴を着けていないか、あるいは袴の丈が短いからでしょう。もっとゆったり歩いてほしいと願っています。特に高貴なお姫様は立ち上がって歩くのではなく、膝行をやってほしいですね。
この際ですからいわせてもらうと、寝殿造りでは格子の内側には御簾と几帳が必需品です。あるいは扇で顔を隠すこともあります。しかしまひろの家はあまりにもあけっぴろげでした。いくら宮仕え女房だからといって、まったく顔を隠そうとしないのはどうかと思います。これだと「垣間見」をする必要もありません。撮影の都合なのかもしれませんが、せめて高貴なお姫様は御簾越しにすべきです。そうでないと勘違いする人が続出してしまいかねません。
大河ドラマを見ている人へ(11)―藤原道長の「この世をば」歌 2024.11.13
ついに第四十四話で道長のあの歌が詠まれるようです。三条天皇が譲位され、新たに後一条天皇が即位されました。その后に道長の娘威子がなります。娘三人が次々に后になって三后を独占したことで、道長はその喜びを歌に詠じました。
この世をば我が世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思へば
この歌は藤原道長の栄華を象徴する歌として有名なので、大河でも登場するようです。というより、これが出てきてはじめてキーワードとしての月が完結することになります。
ただしこの歌の出典に関しては、いささか奇妙な点があります。というのも、道長はこの歌を自らの日記『御堂関白記』にも家集『御堂関白集』にも掲載していないからです。それは藤原行成の日記『権記』も、歴史物語『大鏡』・『栄花物語』も同様であり、道長近辺の資料にはこの歌が一切筆録されていません。ではどうして今日まで伝えられたかというと、現場に居合わせていた藤原実資が例によって『小右記』に書き留めていたからです。
もう少し詳しくいうと、道長は当日のことを『御堂関白記』寛仁二年(1018年)十月十六日条に、「於此、余読和歌、人々詠之」とだけ記しています。この月は中秋の名月ではなく陰暦十月(冬)の満月でした。「余和歌を読む」とあるので、道長が和歌を詠んだこと、さらに居合わせた人々がその歌をみんなで合唱したことまではわかりますが、一体どんな歌を詠んだかはわかりません。
道長がこの歌を日記に書き留めなかった理由について、かつて歴史家の竹内理三氏は単純に道長の照れと見ておられました。倉本一宏氏の見解もそれに近いようです。しかしながら「この世をば」歌に関しては、道長の照れ云々で解消すべき問題ではありません。たとえその日、道長の娘威子が立后したことで、娘三人が三后(皇后・皇太后・太皇太后)を独占することになったとしても、そして道長が天皇の外戚として君臨できたとしても、この歌の内容は明らかに天皇制に対する不遜な表現(不敬)になっているように読めるからです。道長自身そのことに気付いていたからこそ、あえて日記に書き留めなかったのではないでしょうか。これが古典文学を専攻する私のというか従来の一般的な解釈でした。
ここであらためて『小右記』同日条を検討してみましょう。
太閤招呼下官云、欲読和歌、必可和者、答云、何不奉和乎、又云、誇たる歌になむ有る、但非宿構者、此世乎ば我世とぞ思望月の虧(かけ)たる事も無と思へば、余申云、御歌優美也。無方酬答、満座只可誦此御歌、元稹(げんしん)菊詩、居易(きょい)不和、深賞歎、終日吟詠、諸卿饗応余言数度吟詠、太閤和解、殊不責和、
太閤(道長)は下官(実資)に自分が歌を詠むから、必ずそれに和して歌を詠むようにと念を押しています。「宿構に非ず」とは、前もって作っておいたのではないということです。実資が唱和することを承諾すると、「誇たる歌」と自嘲しながらも「この世をば」歌を詠みあげました。するとその歌を聞いた実資は約束を違えて歌を詠まず、道長の機嫌を損ねないように、元稹と白居易の菊詩の故事を出して、みんなで合唱することでその場を取り繕ろいました。
まるで『枕草子』の一節のようですね。では道長は、この歌が『小右記』に書き留められたことは知っていたのでしょうか。実資は単に戯れ歌として、道長の歌を『小右記』に書き留めたのでしょうか。そこに「虧」という難しい漢字が使われています。これは「盈虧」(えいき)つまり月の満ち欠けのことを示す漢字です。
実はそれに先立つ6月10日条に、源頼光が新築の土御門邸の調度を献上した一件につき、実資はやはり菊詩を引用して「太閤の徳、帝王の如し」と強烈に批判していました。ここもその延長と見ることができます。だからこそ実資は、それに同調するような返歌を詠みたくなかったので、みんなで合唱したのでしょう。どうやら元稹と白楽天の菊詩もキーワードになりそうです。
その後どういうルートをたどったのか、『袋草紙』一四に「小野宮右府記云」として、
大閤呼招下官云、欲読和歌、必可和者、答何不奉和歌。又云、誇たる歌になんある。
此世をば我よとぞおもふ望月のかけたることもなしとをもへば
余申云、御歌優美也。無方、満座只誦此御歌、元稹(げんしん)菊詩、居易不和、深賞歎、終日吟詠、諸卿饗応、余言、数度吟詠、大閤和解殊不責和。 (『袋草紙注釈』上巻62頁)
と引用されています。ただしここでは秀歌には返歌をしない例として出されており、政治的な配慮云々とは大きく異なっています。
さらに『続古事談』にも引かれていますが、
又右大将にの給、歌をよまむとおもふに、かならず返し給べし。大将、などかつかまつらざらんと申さる。大殿仰らるるやう、ほこりたるうたにてなんある。ただしかねてのかまへにはあらずとて、
此世をば我世とぞ思ふもち月のかけたる事もなしと思へば
大将申さる、この御歌めでたくて返歌にあたはず。ただこの御歌を満座詠ずべき也。元稹が菊詩、居易も和せず、ふかく感じてひねもすに吟詠しけり。かの事をおもふべしと申さるれば、人々饗応してたびたび詠ぜらるれば、大殿うちとけて、返歌のせめなかりき。
と、ここでは漢文からわかりやすく和文に書き改められています。
こうして古記録から歌論集・説話集へと「この世をば」歌が複数回書き留められたことで、後世に伝わる土壌が形成されました。さて大河ドラマはどう描くのか、楽しみです。
大河ドラマを見ている人へ(10)―『源氏物語』からのパッチワーク 2024.11.6
幼いまひろと三郎は、誰が見ても若紫巻の紫の上と光源氏のパクリだとわかりましたが、はっきりそうだといえない曖昧かつ部分的な匂わせ引用も、ドラマにはたくさん散りばめられているようです。前に述べた「オマージュ」だけでは済みそうもありません。
私がぎょっとしたのは、賢子が道長の子だという設定です。しかもそのことを夫の宣孝が見抜いており、まひろに公然と話していましたね。これを『源氏物語』にあてはめると、女三の宮と柏木の密通によって薫が誕生するところになります。当然、柏木からの手紙を見つけた源氏は、すべてを悟りました。そしてかつての藤壺との密通による因果を思い、薫を自らの子として育てるのです。
両者を細かく比較するとかなり違っていますが、自分の子ではないことを知る点では共通しています。賢子の出生の秘密は為時にも知られているので、いずれ賢子は自分の父親が誰なのか知ることになりそうです(冷泉帝も薫も出生の秘密を知りました)。あるいは道長の子であることが、これからのドラマの展開に関わってくるのでしょうか。
今、女三の宮に言及しましたが、そういえば入内前の彰子は、あまり利発そうではありませんでしたね。むしろこれで聡明な定子に対抗できるのかと不安を抱きました。私の想像していた彰子は、もっと賢く堂々としていたからです。あるいはそこに幼い女三の宮の姿が投影されていたのかもしれません。ただしドラマの彰子は、藤式部の薫陶よろしく次第に活発に自己主張するようになっていきました。
話は遡りますが、道長はまひろに自分の妾妻にならないかと申し出ます。それに対してまひろは、北の方でなければいやだと断りました。ところが後にまひろは、宣孝の妾妻に収まっているのですから、その点はすっきりしません。もっとも、ここでまひろが道長の妾妻になっていれば、先の展開はストップしてしまいます。あるいはここに拒む女としての空蝉が投影されているのかもしれません。逆に拒んだからこそ、ソウルメイト(魂の伴侶)たりうるのでしょう。
その宣孝とまひろは、親子ほど年の離れた夫婦です。しかも宣孝には既に正妻も子供もいました。それを『源氏物語』に当てはめると、伊予介と空蝉がモデルとして浮上します。なるほど伊予介には先妻の子河内守がいるし、空蝉には弟の小君もいるのですからぴったりです。モデル論でも、空蝉に紫式部自身が投影されているとされています。もっとも空蝉の父は中納言(公卿)ですから、紫式部の父とは身分が違います。また空蝉に賢子のような子供はいません。あくまで部分的なパクリということです。
ところで大河では、赤染衛門がかなり活躍していますね。紫式部が倫子に女房として仕えたという確証はありません。それより倫子サロンそのものが大河の創作のようです。ですから赤染衛門が姫君や女房達の教育係・指導者として描かれているのも新鮮でした。赤染衛門役の凰稀かなめさん、他の女房たちとは明らかにオーラが違っています。『紫式部日記』に「恥づかしげの歌詠み」とあるのは、紫式部も高く評価している証拠です。
その倫子サロンの一コマとして、第三話には「偏つぎ」も登場していたし、第四話では『竹取物語』が話題になっていました。『竹取物語』は過去の作品なので、『源氏物語』の引用とは無関係だと思っている人はいませんか。実は『源氏物語』の中には、それこそ『竹取物語』が何カ所かに影を落としています。その一つが絵合巻で、古い『竹取物語』と新作の『うつほ物語』の優劣が議論されています。場の状況は異なりますが、やはり部分的に絵合巻が引用されていると見るべきでしょう。
それに近いことが既に第二話で行われていました。まひろが、
人の親の心は闇にあらねども子を思ふ道に惑ひむるかな
という藤原兼輔の歌を紙に書写していたところです。これが夕顔巻の歌ならすぐに『源氏物語』引用になりますが、他人の歌なのでそうもいきません。ところが兼輔はなんと紫式部の曽祖父でした。それもあって紫式部は、この「人の親の」歌を、桐壺巻を始めとして『源氏物語』の中に26回も引歌として用いています(最多)。
ということで、若紫巻の引用のようにわかりやすいものもあれば、即座にこれだと断言できないような部分的引用も至る所に仕込まれているようです。それを高木和子氏は「パクリのパッチワーク」と分析していました。なるほどいい得て妙ですね。これからも見逃さないようにしましょう。
大河ドラマを見ている人へ(9)―中宮彰子の一条院哀悼歌 2024.10.29
定子が亡くなる前、辞世の歌として一条天皇に書き残した、
夜もすがら契りしことを忘れずはこひん涙の色ぞゆかしき(後拾遺集536番)
は、『百人秀歌』に撰入されていることもあって、定子の代表歌として広く知られています(ドラマの第二十八話に出ていました)。それに対して彰子の詠んだ歌は、あまり知られていないのではないでしょうか。そのためかドラマでも取り上げられていませんでした。
しかしながら彰子も、寛弘八年(1011年)六月二十二日に崩御された一条院のことをちゃんと歌に詠んでいました。その歌は『新古今集』に撰入されている、
一条院かくれ給ひにければ、その御事をのみ恋ひ歎き給ひて、夢にほのかに見え給ひければ
逢ふことも今はなきねの夢ならでいつかは君をまたは見るべき(新古今集811番)
です。「なきね」には「今は亡き」と「泣き寝」が掛けられています。詞書によれば、これは一条院が崩御された後、彰子が院のことを慕って泣き暮らしていたところ、夢にほんのわずかだけ見えたので、そのことを詠んだ歌となっています。恋しい人をせめて夢に見たいというのは恋歌の常套ですが、夢で見たくらいでは飽き足らないというのもまた恋の真理ですよね。しかし現実問題として、亡くなった人と夢以外に会うことはかないません。もし可能だとしたら、それは彰子自身があの世へ行った時です。
ところでこの歌には、元となったとされる歌があります。それは中務という女流歌人が娘を失った際に詠んだ、
忘られてしばしまどろむ程もがないつかは君を夢ならで見む(拾遺集1312番)
です。両歌を比較すると、「いつかは君を」「夢」「見る」が共通しています。これはまどろむたびに娘が夢に出てくるので、しばらく娘のことを忘れて眠りたい、一体いつになったら夢でなくて娘に会えるのだろうかという歌です。しかし所詮それは願望であって、夢以外に娘にあえるとしたら、やはり中務が亡くなるしかありません。なるほどこの歌を踏まえているといえそうですね。
彰子にはもう一首関連歌がありました。
一条院うせ給ひてのち、なでしこの花の侍りけるを、後一条院幼くおはしまして、なに心もしらでとらせ給ひけれは、おぼしいづることやありけむ
見るままに露ぞこぼるるおくれにし心も知らぬ撫子の花(後拾遺集569番)
詞書によれば、父帝が亡くなったこともわからない幼い敦成親王が、撫子の花を摘んだのを見て詠んだ歌です。「撫子」に「撫でし子」つまり愛児が掛けられています。これも比較的有名な歌で、『後拾遺集』以外に『栄花物語』・『今昔物語集』・『今鏡』・『宝物集』などにも採られています。
なお彰子の周りには、多くの優秀な女房たちが仕えていました。有名な人だけでも紫式部・赤染衛門・伊勢大輔・和泉式部がいますし、紫式部の娘大弐三位や和泉式部の娘小式部もいます。定子に仕えたのは清少納言一人ですから、どれだけ彰子サロンが潤沢だったかわかりますよね。逆に言えば、これだけの役者を揃えなければ、紫式部だけでは定子サロンに対抗できなかったともいえます。ただこれによって、王朝女流文学が花を咲かせたことはいうまでもありません。彰子サロンが文学史に果たした役割は、もっと評価されていいはずです。当の彰子にしてもそれなりの歌人であり、勅撰集に二十八首も撰入されています(定子は若死にしたこともあってわずか八首です)。その中でも「逢ふことも」歌は有名で、『新古今集』以外に『栄花物語』・『無名草子』・『定家八代抄』・『新時代不同歌合』などに採られています。ドラマで詠まれなかったのは残念でなりません。
なお敦康親王の処遇をめぐって、彰子は父道長と激しく対立し、女が政治に関与できないことを嘆きましたね。まひろが仲間を作ることをすすめると、早速彰子は兄弟たちを呼び集めましたね。后の立場でも政治に関与できないことはないのでしょうが、この後で敦成親王が後一条天皇として即位すると、道長が政界から身を引いたこともあって、国母(帝の母)として発言力を増すことになります。そういえば一条天皇の母詮子も政治に口出ししていましたよね。
大河ドラマを見ている人へ(番外編2)―一条天皇辞世の「君」は誰なのか 2024.10.22
第四十話では、一条天皇の辞世の歌が詠まれました(享年32)。前回の惟規に続いての辞世ですが、今回も独自の展開になっていました。というのも、惟規は最後の「ふ」字を書けませんでしたが、一条天皇は五句目の「こと」までで後は口にできなかったというか、聞き取れませんでした。歌を詠んだのは崩御の一日前ですから、最後まで詠んでもよかったのにと思わないでもありません。ところがそれには理由があったようです。
この一条天皇の辞世は、さすがにいくつもの作品に掲載されています。それを順にあげてみると、
1権記 露の身の風の宿りに君を置きて塵を出でぬることぞ悲しき
2御堂関白記 露の身の草の宿りに君を置きて塵を出でぬることをこそ思へ
3栄花物語 露の身の仮の宿りに君を置きて家を出でぬることぞ悲しき
4新古今集 秋風の露の宿りに君を置きて塵を出でぬることぞ悲し
5古事談 露の身の風の宿りに君を置きて遠く出でぬることをしぞ思ふ
となります。よく見ると、作品によって微妙な本文異同が生じていることがわかります。それは書き留めた人の解釈(思い入れ)が反映しているからなのでしょう。そもそもこの歌自体に、本文異同を生じさせる要因があるのかもしれません。
この中で現場に立ち会っていたのは行成ですから、『権記』がもっとも資料的価値が高いといえます。全体を俯瞰すると、『御堂関白記』では『権記』の「風の宿り」が「草の宿り」に、「ことぞ悲しき」が「ことをこそ思へ」になっています。『栄花物語』では「風の宿り」が「仮の宿り」に、「塵を出でぬる」が「家を出でぬる」に、『新古今和歌集』では「露の身の」が「秋風の」に、「風の宿りに」が「露の宿りに」に、『古事談』では「塵を出でぬる」が「遠く出でぬる」にそれぞれ変わっています。同じものはありません。
実は露が宿るのは草葉で、その露を吹き払うのが風ですから、「風の宿り」というのは歌語としてしっくりきません。そのために「草の宿り」あるいは「仮の宿り」に改められているのでしょう。一番の問題は、『権記』と『御堂関白記』の違いです。ひょっとするとドラマが「こと」の後を言わせなかったのは、『権記』が「ことぞ悲しき」で『御堂関白記』が「ことをこそ思へ」と違っていたのを隠すためだったかもしれません。
というのも、この歌に詠まれている「君」が誰なのか、具体的には定子なのか彰子なのか、従来から説が分かれているからです。大勢は十一年前に亡くなっている定子のこととする説に傾いています。というのも定子の辞世の歌として『栄花物語』に、
煙とも雲ともならぬ身なりとも草葉の露をそれとながめよ
とあって、この歌が一条天皇の歌と響き合っているように思えるからでした。
もっともドラマのように彰子の前で詠まれたとすれば、これを定子に向けた歌とは解釈できませんよね。というより道長は、この辞世を彰子に向けて詠まれたものとして筆録しているのでしょう。それに対して行成は、歌の後に「其の御志、皇后に寄するに在り。但し指して其の意を知り難し」(『権記』)と書き加えています。そこに定子とも彰子ともありませんが、道長は「中宮」と書き、行成は「皇后」と書いているので、それを彰子と定子に置き換えているのです。『権記』では、「中宮」彰子と「皇后」定子が使い分けられているとされているので、「皇后」は定子となります。もし行成が「君」を定子と見ているのであれば、その場に彰子はいなかったのでしょうね。
なお「君を置きて」というのは、現に生きている人について使うものだという説があり、もしそうならこれは彰子のことで決まりです。というより彰子だったらこの世に残せますが、定子は既に亡くなっているので、むしろ定子に会いに行くことになります。それでは困るので、定子は未だ成仏できていないと無理に解釈しています。一体、辞世というのは誰のために詠まれるものなのでしょうか。
ということで、一条天皇の辞世にある「君」については、未だ説が分かれたまま、それこそ宙に浮いたままだということを紹介しました。参考になったでしょうか。
大河ドラマを見ている人へ(8)―『源氏物語』とスイーツ 2024.10.22
「光る君へ」の第一話を見ていたら、三郎(道長)がまひろにお菓子をあげているシーンがありました。この菓子は「粉熟(ふずく)」というもののようです。米粉や豆粉に甘葛で甘みを付けて丸くしたものとされています。お祝いの宴に供せられた比較的高価な菓子だったそうなので、三郎の家で何かのお祝い事があったのでしょう。
次に第十一話では、道綱が唐菓子の「索餅(さくべい)」を食べていました。さらに第十八話では、ききょうが定子から頂いたかりんとうのようなお菓子を、まひろと一緒においしそうに食べていました。これは八種唐菓子のひとつである「梅枝」でしょうか。いずれにしてもこのような菓子は、宮仕えに出たおかげで手に入れることができたものです。第二十八話には、『枕草子』に見える「青ざし」が出ていました。ドラマでは『源氏物語』だけでなく、『枕草子』からも積極的に引用しています。その他、第三十三話で、彰子は敦康親王にお菓子(あんず?)をあげていますし、第三十四話では、彰子自らお菓子を口にしていました。さらに第三十七話では。里下がりするまひろにお菓子が下賜されていましたね。どうもお菓子の出る頻度が高いようなので、これからもお菓子には注意する必要がありそうです。
ところで京都の弘道館では、毎年「京菓子展」を開催しています。これは古典文学にちなむ和菓子のデザインコンクールです。2017年が『小倉百人一首』で、2018年が『源氏物語』だったことから、私も毎年楽しみにするようになりました。2018年度には、頼まれて「平安の『源氏物語』と江戸の『源氏物語』―源氏菓子を起点に―」という講演をさせていただきました。せっかくなので、『源氏物語』の中に登場している菓子について調べてみたのですが、そんなにたくさん描かれているわけではありませんし、それを現代の和菓子のルーツとしていいのか迷いました。時代性もありますが、紫式部は必ずしもスイーツ女子ではなかったようです。
平安時代に和菓子と称すべきものはまだ存在していません。『枕草子』に出ている「青ざし」にしても、現在の和菓子屋さんからすれば、到底和菓子とは認められないものです。ただ、少しでも和菓子の歴史を遡らせようとすれば、やむをえず餅までもルーツに加えざるをえないのです。そういった目で見ると『源氏物語』には、
1「その夜さり、亥の子餅参らせたり」(新編全集『源氏物語』・葵巻72頁)
2「こなたにて御くだもの参りなどしたまへど」(薄雲巻435頁)
3「わざとなく、椿餅、梨、柑子やうの物ども」(若菜上巻142頁)
4「高坏どもにて、粉熟まゐらせたまへり」(宿木巻473頁)
5「宮の御方より、粉熟まゐらせたまへり」(宿木巻482頁)
などの例があげられます。
葵巻に見える「亥の子餅」というのは、紫の上の新枕(新婚)の「三日夜の餅」の前日に出されています。十月の初亥の日(初旬)に食べると万病を祓い子孫が繁栄するとされているのですが、甘いのか美味しいのかは記されていません。むしろこれは「三日夜の餅」を浮上させるための契機(小道具)になっているようです。薄雲巻の「くだもの」、漢字で書くと「果物」ですが、草冠の付いた「菓子」と似ているとは思いませんか。昔「菓子」といったら普通は果実のことでした。まれに果実以外の加工食品である「唐菓子」(唐果物)のことも意味しました。「唐菓子」は中国の菓子ですが、粉や小麦粉を練って油で揚げたものです。沖縄の「サーターアンダギー」に似たものです。その「唐菓子」が定着してくると、果物は「水菓子」として区別されるようになりました。若菜上巻の「椿餅(つばいもちひ)」は、蹴鞠の後宴で出されたおやつ代わりの中間食です。これは道明寺粉に果汁を加えて作った餅を、椿の葉で挟んだものとさあれています。ドラマでは既に第十三話に登場済みですが、第四十一話にも出てくるようです。最後の「粉熟(ふずく)」は宿木巻にのみ二度出ています。この「粉熟」なら、かろうじて和菓子のルーツといえなくもありません。
さてこれとは別に、『源氏物語』を題材として、それをイメージした和菓子作りもあります。これは江戸時代以降、いろんな和菓子屋さんで試みられてきました。たとえば羊羹で有名な虎屋は、定期的に「源氏物語と和菓子」展を開催しています(解説した小冊子も作られています)。またゴーフルで有名な神戸の風月堂も、『源氏物語』の語り部・村山リウさんの依頼を受けて、毎月の語りの会で語られる巻に合わせて、「源氏の由可里」を20年も提供し続けました。その後、山下智子さんの源氏語りに変わりましたが、今も同じように和菓子が提供されているとのことです。これは各巻の特徴を活かしたものですから、巻名和歌ならぬ巻名菓子ということになります。
その他、京都の老松では「源氏香之図」のデザインを活かした「源氏香」という落雁を製造しています。なお「源氏香之図」は52種類あって、桐壺巻と夢浮橋巻を除いた52の巻名が付けられています。ただしこれは平安時代にはなかったので、やはり江戸時代の源氏解釈でした。和菓子は平安時代に遡れない江戸独自の『源氏物語』ともいえます。
ところで京都の弘道館(御所の近く)では、今年の11月1日(金)から~15日(金)まで「京菓子展2024源氏物語」を開催します。この機会に『源氏物語』の和菓子を味わってみませんか。
大河ドラマを見ている人へ(番外特急便)―紫式部の兄弟藤原惟規について 2024.10.16
「光る君へ」第三十九話で、父為時に同行して越後国に下向した惟規は、病であっけなく亡くなりましたね(疫病に罹ったのかもしれません)。紙と筆をもらった惟規は、最後の力を振り絞って貴族らしく、
みやこには恋しき人のあまたあればなほこのたびはいかむとぞ思(ふ)
という辞世の歌を書き残しています。ただ最後の一字がきちんと書けず、画面では筆が左横に流れてかすれているのが見えました。ところがその辞世の歌が紫式部のもとに届けられたのを見ると、なんと「思」の後にきちんと「ふ」が書き添えられているではないですか。これに気がついた人がいたら、その人の見る目はたいしたものです。
ここで少し惟規の生涯を顧みてみましょう。惟規程度の身分では、いつ生まれたのかはわかりません(記録に残りません)。父の越後国赴任が寛弘八年(1011年)だとすると、それが惟規の没年と見てよさそうです。ドラマでは惟規を紫式部の弟に設定していましたが、実のところ兄なのか弟なのかもわかっていません。兄にするか弟にするかで、惟規の享年は5年以上変わりかねません。逆に紫式部の生年にも大きく作用することになります。まあ40歳前後というところでしょうか。
ドラマでは惟規が結婚しているのか、子供がいるのかなどわかりませんでしたが、実はちゃんと妻も子もいました。官職は文章生から少内記となり、六位蔵人で兵部丞や式部丞を兼任していたようです。そして最後に従五位下の位を得ています(殿上人)。その時に蔵人は解かれたらしく、だから越後に行くことができたのです。
漢籍の才能は、本人が口にしていたように、そんなに優れていなかったかもしれません(紫式部の方が優秀?)。幸い和歌の才能はあったようで、『後拾遺集』以下の勅撰集に十首も撰入されているし、『藤原惟規集』も残しています。父為時がわずか四首しか勅撰集に撰入されていないのに比べると、それなりの歌人だったことがわかります。そういえば第三十五話で、斎院の中将に逢いに行って警固の武士に捕まった時も、和歌を詠んで許してもらっていましたね。
さて話を戻します。臨終のシーンでは「ふ」が書けなかったのに、いつの間にか「ふ」が書き足されていました。そのことについてドラマでは謎解きされていませんが、惟規の説話を知っている人にはすぐピンときたはずです。まず和歌の出典である『後拾遺集』764番の詞書を見ると、
父のともに越の国に侍りけるとき、おもくわづらひて、京に侍りける斎院の中将がもとにつかはしける
としか出ていません。この詞書によれば、この歌は父や紫式部にあてた辞世ではなく、恋人の斎院の中将に送られたものとなります(恋歌です)。その点はひどい失恋の痛手を癒すために都を離れたとする大河とは違っていることになります。
話はこれで終わりません。ここからが国文学者の出番です。というのもこの話は、後の『俊頼髄脳』以下『宝物集』『今昔物語集』『十訓抄』などの説話集に掲載されており、結構有名だったからです。その一つである『俊頼髄脳』を見ると、辞世の歌の後に、
はてのふ文字をえ書かでいき絶えにければ、親こそ「さなめり」と申して、ふ文字をば書き添へてかたみにせむとおきて、常に見て泣きければ、涙にぬれてやれ失せにけりとかや。
とあって、父親の為時が「ふ」を書き入れたことになっているではありませんか。ドラマはこれに依拠しているのでしょう。これも大石さんによる読者への挑戦ではないでしょうか。あなたは「ふ」が書き加えられたことに気づきましたか。それが説話集からの引用であることを知っていましたかと。惟規ロスで騒いでいるみなさん、この仕掛けに気づかなければ惟規ファンとはいえませんよ。もちろん気づかなくても困りません。ただ気づいた方が面白いのです。それこそが引用であり教養なのです。
またドラマにおいて、惟規は父と一緒に越後国に下向していますが、『俊頼髄脳』では、
蔵人にてえくだらで、かぶり賜はりて後にまかりけるに、道より病をうけていきつきければかぎりになりにけり。親待ちつけてよろづにあつかひけれど、やまざりければ、
とあって、蔵人を解かれてから単身下向したことになっています。二人一緒に下向したのか、それとも惟規は後から追いかけていったのかはわかっていません。
実際のところドラマでは、惟規は斎院の中将に失恋したことで父に同行しましたよね。それが紫式部にとっては気に入らなかったのでしょう。『紫式部日記』では斎院の中将のことをかなり辛辣に批判しています。これが弟をふったことへの復讐なのかもしれません。ちょっと恐いですね。
大河ドラマを見ている人へ(7)—道長の妻・源明子について 2024.10.15
かつて平安時代の貴族の婚姻制度は、いわゆる一夫多妻といわれていました。そのため道長の二人の妻である倫子と明子に関しては、『大鏡』の「北の方二所」という記述を根拠として、二人とも正妻として扱われていたことがあります。確かに二人の出自は共に皇族であり大臣家ですから、甲乙つけられません。ただし『小右記』長和元年(1012年)6月29日条を見ると、明子のことを「高松左府妾妻」と記しています。「高松」は住居のこと、「左府」は左大臣道長のことです。少なくともこの頃には明子が妾妻と見なされていたことがわかります。
では正妻か妾妻かはどの時点で決定したのでしょうか。たとえば倫子と明子は、結婚当初にはどちらが正妻か決まっていなかったものの、倫子が入内の駒となる彰子を生んだことによって正妻になったとする説もありました。ところが最近一夫多妻制が見直されて、新たに一夫一妻プラス多妾が提唱されています。すっきりしない名称ですが、平安朝であっても正妻は一人であり、それ以外は妾妻だというのです。ということで、正妻は後で決まるとされていたものが、正妻か妾妻かは結婚の時点で既に決まっていたとされるようになりました。
もちろんこれについては反論もあります。たとえば『蜻蛉日記』の作者道綱母について、結婚の時点で既に兼家の正妻は時姫であり、道綱母が正妻になる可能性はなかったとすると、日記の中の記述と齟齬してしまいかねません。結婚に際して道綱母に正妻になる可能性が残されていたのか、それとも妾の地位は一生変わらないのかは、作品の解釈にも大きな影響を及ぼしかねないからです。
これは紫式部も同様でした。夫の宣孝には正妻も子供もいて、紫式部が正妻になる可能性はありませんでした。では正妻と妾妻では、結婚形態はどのように違うのでしょうか。簡単にいえば、夫は正妻と同居しているのに対して、妾妻のところには時々通っていたということです。大河では娘の賢子が母の紫式部に向かって、「母上が嫡妻ではなかったから、私はこんな貧しい家で暮らさなければならないのでしょう」と食ってかかっていました。でもそれはちょっと違います。当時は正妻の実家が夫を経済的にバックアップしていました。それができないというのは、離婚の理由にもなったのです。
例えば『伊勢物語』第二十三段「筒井筒」がそうでしたね。妻の家が貧しいので、夫は裕福な女性のところへ通うようになっています。そういった目で道長の妻を見ると、明子の父源高明は安和の変で失脚し、経済的に没落していたのに対して、倫子のバックには莫大な財産がありました。その財産が道長の出世を後押ししたのですから、それができない明子は完全に負けています。そのことは子供たちの待遇にも表われていました。
具体的に倫子腹の子供たちと明子腹の子供たちを比較してみると、明らかに官位の昇進に差異が生じていることがわかります。息子たちに関しては、まず元服後の官位に差がありました。倫子腹の頼通は12歳で元服した際に正五位下になっています。それに対して明子腹の頼宗は、13歳で元服した際は従五位上でした。
その後の昇進にしても、頼通は15歳で正三位に昇っているのに、頼宗が正三位になったの21歳でした。これを見ると明らかに倫子腹の方が優遇されています。最終官職を見ると、倫子腹の頼通と教通はともに摂政関白太政大臣になっていますが、明子腹の頼宗は右大臣、顕信は右馬頭で出家、能信と長家は権大納言どまりです。頼宗が右大臣になれたのは、倫子の養子になったからだともいわれています。これが正妻と妾妻の大きな差なのです。なおこの長家の子孫が、後に歌道の御子左家として知られる俊成・定家親子の先祖でした。
娘たちはもっと明白です。というのも、倫子腹の娘たちはそろって天皇の後宮に入内し、三人までもが立后しています。それに対して明子腹の娘は、誰一人后にはなっていません。寛子は三条天皇の第一皇子である敦明親王に入内しますが、ご存じのように敦明親王は道長の圧力に屈して皇太子の地位を放棄し、小一条院という名誉職に甘んじています。
特に注目すべきは倫子が相続した土御門殿です。これは道長にとって非常に大事な邸でした。『紫式部日記』にあるように、彰子はここで敦成親王を出産しています。さらに後一条、後朱雀、後冷泉という三代の天皇は、ここを里内裏としているのですから、それこそ道長の栄華を象徴する邸宅だといえます。
一方の明子は父高明の邸に住んでおり、それにちなんで高松殿とか近衛御門と称されています。大河で明子は勝ち気で倫子に過剰に対抗意識を燃やす女性として描かれていますが、あれでは道長の心は休まりません。どうやら実際の明子は控えめなお姫様然とした癒し系の女性だったようです。だからこそ道長は、そこに一時の心の安らぎ・救いを求めて通っていたのでしょう。結論として、倫子は公的・物質面で道長を支え、明子は私的・精神面で道長を支えたことになります。その明子も倫子には及びませんが、86歳まで長生きしています。
大河ドラマを見ている人へ(6)―『枕草子』誕生秘話 2024.10.8
いやあ驚きました。紫式部のドラマだから、いずれ清少納言も登場するだろうと思っていたところ、なんと第六話に早くもききょう(清少納言)が登場したではないですか。清少納言と紫式部は、後宮におけるライバルとして扱われることが多いのですが、清少納言の方が年長で出仕時期も5年ほど早いので、少なくとも宮中で丁々発止と渡り合ったことはなかったとされています(もちろん記録にもありません)。
ところがドラマでは、清少納言がまだ定子に仕える前に、さっさと二人を藤原道隆主催の漢詩の会で出会わせています。そういえばまひろと道長も、ドラマでは異常に早く出会っていましたね。この会には、二人の父である藤原為時と清原元輔も出席していました。その会で公任の披露した漢詩について、まひろは「白楽天のよう」とほめますが、ききょうは「元稹 のよう」と反論しており、最初から漢詩の知識での応酬が行われていました。
第六話でもっと驚いたのは、ききょう役のファーストサマーウイカさんの演技でした。名前といい日本人離れした顔立ちといい、一瞬外国の女優さんかと思ったら、本名は「初夏」でそれを「ウイカ」とカタカナ表記していることを知りました。その上でファーストサマーは「初夏」の日本語英語だと気が付きました(英語だったらアーリーサマー)。それ以上に、よくしゃべることしゃべること。まさに清少納言にうってつけの配役だと思います。彼女の登場で、大河を見る楽しみがまた一つ増えました。そのききょうは第七話にも登場し、藤原斉信といつの間にか他人ではなくなっているような、意味ありげなやりとりをしていました。
少し飛んだ第十五話では、ききょうがまひろの家に来て、定子のもとに女房として出仕する決意を告げます。もちろんこれも史実にはないことです。それより定子の母高階貴子がききょうの才能を見出した道隆の漢詩の会には、まひろも一緒に出席していたというのに、声がかかったのはききょうの方でした。そしてききょうは「清少納言」という女房名を授かります。まひろより先に『枕草子』を書かせなければならないからなのでしょうね。
第十八話以降、毎回のようにききょうが登場しており、結構重要な役割を担っていることがわかります。もう友達以上ですね。例によってききょうがまひろを訪ね、縁側で「中宮様より賜りましたお菓子ですの。おすそわけ」といって、持参した貴重なお菓子をまひろにすすめます。これも宮仕えの特権でしょう。それに続いてききょうは、「内裏の中はいま、次の関白がどちらになるかの話ばかりなの。もううんざりして、逃げるようにまひろさまのもとにまいりましたのよ」と、本題を切り出しました。まひろは、「次の関白は、先の関白道隆様の若君だと父が申しておりましたけれど」というと、「私も伊周様に関白になっていただきたいのだけれど、権大納言の道長様だという説もあるのです」と、ここで思いがけず道長の名前が出てきました。その名に反応して目を泳がせたまひろに、ききょうは「あらっ、道長様ご存じ?」と尋ねます。どぎまぎするまひろですが、「昔、漢詩の会でご一緒したわね」とききょうはひとりで納得しました。実は清少納言も道長贔屓だとされています。
続く第十九話でも、まひろが政治に関心を持っていることを知ったききょうは、定子がきっと彼女の話を面白がるだろうと考えます。そこでまひろを連れて参内するのですが、二人が歩く廊下には嫌がらせのために鋲が撒かれていました。ききょうは「こうした嫌がらせは内裏では毎日のこと」と告げます。この部分は桐壺更衣への嫌がらせを下敷きにしているようです。その後、まひろは定子に謁見し、そこへ一条天皇まで訪れてきます。もちろん紫式部が定子に会ったという史実はありません。
第二十話は、「長徳の変」でショックを受けた定子を心配したききょうが、まひろと一緒に変装して定子の邸の前栽に忍び込み、そこで定子の剃髪を目撃します。次の第二十一話では、まひろを訪ねたききょうが、「中宮様をお元気にするにはどうしたらよいかしら」と相談します。するとまひろは、以前ききょうが定子から高価な紙を賜ったと話していたのを思い出し、「その紙に中宮様のために何かお書きになってみたらよいのでは」と提案(示唆)しました。これが『枕草子』誕生のきっかけとなります。なんとドラマでは、『枕草子』は紫式部の提案によって書かれたことになっているのですから、これにはまたまた驚いてしまいました。
少し飛んで第二十九話で、久々にまひろの家を訪ねたききょうは、あなたの言葉がきっかけで、故定子との美しい思い出を綴った書物を書くことができたと報告します。それこそ『枕草子』でした。ききょうは、これには定子様の光だけを綴ったと打ち明けます。こんなに早く登場しただけでなく、こんなに長々と清少納言が活躍するとは夢にも思いませんでした。しかも 『枕草子』が紫式部の示唆によって書かれたなんて、大胆な脚本ですよね。
もちろん定子が亡くなったことで、ききょうも出番がなくなると思っていたら、今度は定子の娘脩子内親王に仕えていました(これも仮説です)。そして第三十七話でついに二人は再会し、第三十八話でききょうが思いのたけをぶっつけましたね。定子が薨去されたのが1001年で、敦成親王誕生が1008年ですから7年ぶりの再会になります。もちろん史実ではありません。
〈おまけ〉朝ドラを見ている人へ―「おむすび」一口話 吉海直人
新しい朝ドラのタイトルは「おむすび」ですね。ではみなさんは「おむすび」の意味、あるいは「おむすび」と「おにぎり」の違いは御存じですか。そもそも「むすぶ(結ぶ)」というのは心(魂)を込めること(呪術的な意味合い)であり、そのために心臓の形になっているという柳田(やなぎた)國男の説(食物と心臓)があります。朝ドラでも、人と人を結ぶ意味も含まれているとのことです。それに対して「おにぎり」は、「鬼切り」の語呂合わせから魔除けの効果があるという説もあります。そんなこと考えもしないで無心に食べていたことを反省しましょう。
そういえば昔話の「さるかに合戦」や「おむすびころりん」にも登場しています。「さるかに合戦」は「おにぎり」、「おむすびころりん」は「おむすび」と使い分けられています。ではその形に何か違いはあるのでしょうか。試みに「おむすびころりん」の絵本を見ると、三角の「おむすび」が描かれていました。一方の「さるかに合戦」にしても、蟹がはさみやすいようにと三角形の絵が多いようです。普通、関西は俵形、関東は丸形といわれています。それでも握りやすいからなのか、三角に握る人が一番多いとのことです。
ここまできたら、「おむすび」や「おにぎり」の歴史が知りたくなりました。一体いつ頃からそういわれていたのでしょうか。具体的な資料はあるのでしょうか。そこで改めて私なりに調べてみました。まず「おにぎり」から丁寧語の「お」を取り、下に「飯」をつければ「握り飯」になります(「にぎり」だと寿司です)。
現在はこれを「にぎりめし」と称していますが、古典では「にぎりいひ」といっていたようです。『伊勢物語』第九段には「かれいひ」(保存食)も出ていましたね。古く飯は「いひ」と読んでいたのです。その歴史は非常に古く、上代の『常陸国風土記』に「風俗(くにぶり)の説(ことば)に握飯筑波の国といふ」と出ています。これを信じれば「握り飯(いひ)」は筑波国(茨城県)の方言だったことになります。
それに対して「むすび」の用例は、どう調べても江戸時代まで下らないと見つかりません。しかも『守貞漫稿』の「握飯」項に、「にぎりめし古はとんじきと云。屯食也。今俗或むすびと云。本女詞也」とあって、古い「にぎりめし」の俗語として「むすび」ともいわれているが、それはもともと女詞(女房詞)だったと解説しています。この記述は興味深いですね。「お─」ときたら、真っ先に女房詞(女中詞)を疑うべきなのです。
なおここにあげられている「屯食」は、平安時代から用いられている古い言葉ですが、既に意味用法が違っています。もともとは酒食のこと、あるいは酒食を載せた台のことだったのですが、江戸時代になると公家社会では「握り飯」の意味に限定されて用いられています。そのことは『松屋筆記』の「屯食」項に、「公家にては今もにぎりめしをトンジキといへり」とあることからも察せられます。
ここに至って「おにぎり」と「おむすび」を考える前に、そのもととなっている「とんじき」のことも考えるべきだということがわかりました。また女房詞・女中詞ではないかという疑いについては、江戸時代の公家社会の言葉だったことで納得できます。そうなると「おむすび」は関西、「おにぎり」は関東という区分もできそうです。あるいは「おむすび」は女性語、「おにぎり」は男性語というのはどうでしょうか。
ここまで調べてきた結果、「おにぎり」と「おむすび」に関しては、第一に「握り飯」の方がずっと歴史が古くて、「おむすび」は比較的新しい言葉だということがわかりました。次に「握り飯」が一般的な言葉であったのに対して、「おむすび」は公家社会(上流階級)における女房詞ということで、空間的な狭い広い、あるいは身分的な上下という違いもあげられそうです。その「握り飯」が「おにぎり」に、「むすび」が「おむすび」になったことについては、単に「お」をつけて丁寧にしたというだけでなく、そこに女性の関与が考えられます。ということで「おむすび」は、「おにぎり」に影響を受けてできた新しい言い方だったことがわかりました。
ところでみなさんは「おむすびの日」がいつか知っていますか。これは比較的新しいというか、阪神淡路大震災の折に炊き出しボランティアが話題になったことで、震災の当日1月17日に制定されました。「おにぎりの日」もあります。こちらは1987年に石川県の杉谷チャノバタケ遺跡から炭化した「日本最古のおにぎり」が出土したことで、6月18日に制定されました。少しは朝ドラの参考になったでしょうか。
大河ドラマを見ている人へ(5)―みんな『源氏物語』のモデル! 2024.10.1
ついにまひろ(藤式部)が『源氏物語』を書き出しましたね。ドラマでは桐壺巻から巻の順番通りに書き進んでいます。桐壺巻では、すぐに一条天皇が自分のことを書いていると感想を述べました。要するに桐壺帝は一条天皇自身がモデルになっていると読んでいるわけです。
桐壺巻で光源氏はまだ幼く、ようやく元服した後、左大臣の娘葵の上と結婚します。ただしこれは恋愛ではなく政略結婚なので、ドラマには仕立てにくいかもしれません。とはいえ左大臣の娘との結婚という点では、道長の正妻倫子の父は左大臣源雅信ですから、枠は当てはまっています。
道長にはもう一人の妻明子もいます。実は明子の父源高明も左大臣でした。というよりこの高明は、『源氏物語』の研究において必ず光源氏のモデルとして名前があげられる重要人物です。ドラマでも高明の息子である俊賢が、「臣下の籍に降ろされた亡き父、高明を思い出した。父は素晴らしき人であった」と感想を述べています。この高明は藤原氏の策謀による安和の変で、大宰府に左遷されたことで知られており、それが光源氏の須磨流謫と重なるのです。ただしドラマはまだ帚木巻あたりですから、モデルとするのは尚早かもしれません。
それより光源氏の正妻葵の上のモデルが道長より年上の倫子だとすると、明子の性格は六条御息所になります。そういえば御息所の父親は六条大臣でした。また葵の上の出産シーンは、どうやら彰子の出産シーンに投影されていたようです。『紫式部日記』にも物の怪は登場していますが、さらに六条御息所の物の怪が重ねられているのではないでしょうか。
その他、左遷されたということでは、菅原道真や在原行平の名前もあがっています。また源融は広大な六条河原の院を造営していることが、六条院のモデルとなっていることから、光源氏のモデルとして有力視されています。色好みということでいえば、当然在原業平がモデルだとする説もあります。教養の高さということでは、村上天皇の皇子である具平親王もはずすわけにはいきません。
ということで、光源氏は一人の人物・人格をモデルにして書かれているのではなく、複数の歴史上の人物が部分的に投影され、それが統合されてできているようです。まさに虚構の主人公像なのです。そのことはまひろ自身、「どなたの顔を思い浮かべられても、それはお読みになる方次第でございます」と述べており、誰のことを思って書いたかは明かされません。それもあって藤原斉信は、「光る君はオレのことかと」と主張して失笑を買っています。かなり図々しいというか、自己顕示欲が強いですね。もちろん道長も有力候補の一人でした。
光源氏のモデルだけでなく、例えば帚木巻の「雨夜の品定め」など、まひろが偶然立ち聞きした雑談をもとにしているのですから、それを読んで自分の体験が書かれていると思った人もいたに違いありません。ドラマでは、公任の妻敏子が「あなたにも似たようなこと、おありなのでは?」と冗談交じりに尋ねていましたね。そんな卑近な話も、『源氏物語』には描かれているのです。というより若き日の光源氏は、軒端の荻や末摘花や源典侍など、むしろ失敗譚(滑稽譚)の方が多いくらいです。その点についてドラマでは、若いころに代筆業でお世話になった絵師の「おかしきものにこそ魂は宿る」という言葉や、猿楽一座の直秀がいった、「おかしきものこそ、めでたけれ」がまひろの中で血肉化し、創作での中で活かされているのでしょうか。
ここまで来て、まひろの書く物語とききょうが書いた『枕草子』について比べてみたくなりました。『枕草子』は定子の後宮サロンを舞台として、清少納言自身が特定の男性官人を相手に漢文などの教養の高さを競い合い、ことごとく男性たちをやり込めてしまいます。というより、男性たちは清少納言にやり込められることに喜びを感じていたようです。しかもそれは個人の体験というより、男性官人の集団で共有される宮廷ゲームでした。だからこそ宮中で大いに評判になったのです。
もちろんまひろは『枕草子』の愛読者の一人ですから、いかに『枕草子』とは違うものにするか、というよりいかに『枕草子』を超えた物語を書くかということが命題でした。そこで『枕草子』とは正反対に、登場人物の実名を一切明記しないことにしたようです。それこそが物語の手法(強み)でもあります。それでいて一条天皇は、すぐに自分のことだと反応しましたよね。『源氏物語』は単なる虚構や絵空事ではなく、物語の中に現実を読み取ることが可能なのです。物語でありながら、みんな自分のことが書かれているとして読んでいるのです(読者参加型の物語)。それが宮中で評判にならないわけはありませんよね。
さてまひろは、今後どんな現実を物語の中に紡ぎ出してくれるのでしょうか。私もドラマの魅力に引き込まれてしまいそうです。
大河ドラマを見ている人へ(4)―道長の金峯山詣で(御嶽詣で) 2024.9.24
「光る君へ」第三十五話では、道長一行が奈良の金峯山へ娘彰子の懐妊祈願に詣でていましたね。これは史実です。そのことは道長の日記『御堂関白記』に記されています。それによれば、寛弘四年(1007年)八月二日に京を出発し、十一日に金峯山で法要を行った後、十四日に帰京していました。
「金峯山」というのは奈良県吉野にある大峰山山上ヶ岳のことで、標高は1714mもあります。現在でも険しい山道を登らなければならないので、上流貴族である道長一行にはさぞかし大変だったでしょう。ただし『御堂関白記』に、弱音は一切記されていません。覚悟の上での金峯山詣でだったからです。なおこの一行に妻の倫子も同行したとする説がありますが、倫子の書いたお経を持参して供養しているだけで、さすがに同行はしていないと思います。
もう一つの資料というか遺品があります。ドラマでも、道長は経筒を蔵王堂の経塚に埋納していましたね。その経筒が元禄四年の蔵王堂改築工事の際、他の経箱と一緒発掘されました。経筒の高さは36、4センチで、幸い経筒が金銅製だったことで、外側の500字ほどの銘文も朽ちずに残っていました。その銘文の冒頭には「左大臣正二位藤原朝臣道長」とあり、末尾に「寛弘四年八月十一日」と日付が記されていたので、道長が埋めたもので間違いありません(現在は国宝に指定されています)。道長四十一歳の時でした。
中に入っていたお経は傷んでいましたが、部分的には読み取ることができました。その一つである紺紙金字法華経巻第一には長徳四年(998年)とあって、寛弘四年より9年も前に書かれたものでした。これは前に埋納するつもりで書いたものが、諸事情によって持参できなかったので、今回改めて埋納されたのでしょう。一緒に埋納されていた『無量義経』『阿弥陀経』『弥勒経』などは、寛弘四年に自ら書写したものです。
この金峯山の御霊験によってか、翌年十月十二日に彰子は念願の皇子(敦成親王)を出産します。道長の苦労がようやく実を結んだのです。そこで敦成親王の五十日の祝いが土御門殿で盛大に行われました。その時の様子は『紫式部日記』に記されています。この道長の成功が先例となり、これ以降日本各地で経筒奉納(経塚造営)が行われるようになったとのことです。
ここから新たな問題が生じました。次期東宮を定子腹の敦康親王にするか、それとも彰子腹の敦成親王にするかという皇位継承争いです。もちろん道長の権威は絶大ですから、長和五年(1016年)の三条天皇譲位に伴い、敦成親王が後一条天皇として即位しました。わずか八歳での即位だったので、道長が摂政として権勢をふるうことになります。これが藤原摂関政治です。
ところで道長は「御堂関白」と称されることが多いのですが、ここで摂政になってはいますが、生涯「関白」に就任したことはありません。「御堂」というのも、晩年に法成寺無量寿院を建立したことで、「御堂殿」と呼ばれたことによります。道長の日記にしても、『法成寺摂政記』『法成寺入道左大臣記』『入道殿御日記』『御堂御記』『御堂御暦』などと称されてはいても、「関白」とはありません。どうやら後世(特に江戸時代)に至って『御堂関白記』という名称が一般化し、以後日記の通称となったようです。
なおドラマでは、伊周による道長暗殺未遂事件が描かれていましたね。これは必ずしも史実とはいえないのですが、『小記目録』寛弘四年八月九日条に、
九日。伊周・隆家、致頼に相語り、左大臣を殺害せんと欲する間の事。
と出ていて微妙です。致頼は平致頼という勇猛な武者です。肝心の『小右記』に寛弘四年八月の記事は散逸しており、かろうじて『小記目録』にこの一文が掲載されているのですが、伊周が致頼に道長殺害を依頼するとは、かなり物騒な見出しですね。ここに隆家の名も上がっていますが、ドラマでは暗殺を防いでいましたね。
もう一つ、『大鏡』にもこれに類することが、
入道殿、御嶽にまゐらせたまへりし道にて、帥殿の方より便なきことあるべしと聞こえて、常よりも世をおそれさせたまひて、たひらかに帰らせたまへるに、かの殿も、「かかること聞こえたり」と人の申せば、いとかたはらいたく思されながら、さりとてあるべきならねば、まゐりたまへり。(新編全集264頁)
云々と書かれています。入道殿は道長のことで、帥殿は伊周です。ここでは「便なきこと」とあって、本当に暗殺計画があったのか、それとも単なる噂話なのかはわかりません。『御堂関白記』にも何も書かれていません。わかっているのは道長が金峰山に詣でたこと、伊周が処罰されていないこと、そして彰子が皇子を生んだことだけです。
大河ドラマを見ている人へ(3)―一条天皇と定子は桐壺帝と桐壺更衣のモデルか? 2024.9.17
大河ドラマ「光る君へ」の影響力はすさまじいですね。そのため我々研究者は、毎週月曜日になると、「そうだったの」と問いかけてくる視聴者に対して、「それは違います」と否定して回っています。そもそも大河ドラマはフィクションなのに、それを本当のことだと思い込む人のなんと多いことでしょうか。これも天下のNHK効果なのでしょう。
もっとも、これまでは余裕をもって対処できました。それがここに至って、本気にならざるをえない事態に陥りつつあります。というのも、ついにドラマに桐壺巻が登場したからです。いいかえれば、ついにまひろ(紫式部)が『源氏物語』の執筆を開始したからです。それは喜ばしい反面、研究者の立場からすれば、桐壺巻はかなり後になって、全体の物語の体裁を整えるために書かれたと考えられています。それがいきなり「いづれの御時にか」と出てきたのですから、驚いてしまいました。
脚本家の意図ははっきりしています。一条天皇と皇后定子の悲恋を、桐壺帝と桐壺更衣の悲恋に落とし込みたかったのです。ドラマでは一条天皇が、桐壺巻には自身と定子のことが批判的に(あてつけのように)書かれていると口にしています。なるほど大雑把に見ると、桐壺帝の独断的な行動が周囲の混乱を招き、そのため寵愛を独占していた桐壺更衣は迫害され、皇子を遺したまま若くして亡くなり、桐壺帝は悲嘆に暮れています。部分的にそれだけを見れば、桐壺帝のモデルは一条天皇といっても通用しそうです。それはある意味、定子を描いた清少納言の『枕草子』を引き受けた後日譚といえるかもしれません。
こういった大河における一条天皇の物語読みは、従来の『源氏物語』研究ではほとんどいわれなかったことです。その大胆な展開には感心しますが、モデル論というのはそんな安易なものではありません。もっと総合的に似ている点・似ていない点をあげた上で判断すべきです。そうでないと、ただの個人的見解(いった者勝ち)になってしまいかねません。たとえば、従来いわれている醍醐天皇モデル論と比較して、それを超えるだけのものが一条天皇にあるかどうかです。
もっとも桐壺帝も一条天皇も天皇ですから、その点はモデルとしての条件に適合しています。ただし桐壺帝は第一皇子朱雀帝に位を譲っていますが、一条天皇はいとこの三条天皇に譲位しています。また桐壺帝は譲位後も院政を行っていますが、一条天皇は譲位直後に崩御しています。そういった点は大きく異なっていますよね。
では定子と桐壺更衣はというと、むしろ相違点の方がはるかに多いですね。まず身分ですが、定子の父は中関白道隆で入内当時は政権を担当していました。更衣の父は大納言で、しかも入内の時は既に亡くなっていました。関白の娘だからこそ定子は女御から后になれたのだし、逆に「いとやむごとなき際にはあらぬ」更衣は女御にもなれませんでした。たとえその後で中関白家が没落したとしても、后の身分が剥奪されることはないのですから、后と更衣という身分の違いを看過するわけにはいきません。
ついでにいえば、定子は一条天皇より年長でした。それに対して更衣が桐壺帝より年長とは読めません(年長は弘徽殿です)。確かに二人は皇子を生んでいます。しかし定子が三人(脩子内親王・敦康親王・媄子内親王)も生んでいるのに対して、更衣は一人だけです。しかも敦康は中関白家の外孫だし、第一皇子でした。本来ならすんなり皇太子になれたはずですが、道隆の早すぎる(43歳での)死去は痛手でした。
また定子には伊周・隆家という兄弟がいますが、更衣の後見をしてくれる兄弟はいません(後に出家した兄の存在が明かされています)。定子は決して孤立無援ではありませんでした。しかも伊周は内大臣にまでなっているので、まだ政権を取る望みも残されていました。ところが花山院に矢を射かけるという事件(長徳の変)を起こし、左遷されてしまいます。これは自滅に近い行為です(『源氏物語』にそんな事件は書かれていません)。
そんな第一皇子・敦康親王とは違って、更衣腹の第二皇子・光源氏は、帝の皇子ではあっても親王にもなっていないので、立太子の可能性はほぼありませんでした。まして後に臣籍に降下しているのですから、敦康親王とは大きく異なっています。もう一つ、長徳の変に絡んで定子は出家していますが、更衣は亡くなるまで出家していません。
迫害の質も違っています。定子は后なので、後宮で他の女御から迫害を受けるような身分ではありません。迫害を受けたとすれば、道長からです。また一条天皇は出家した定子を還俗させていますが、そんな展開は『源氏物語』には認められません(女三宮の出家ならあります)。一方、桐壺更衣は後宮で弘徽殿女御から迫害を受けています。それは分不相応に、親王にもなっていない源氏の立太子を望んだからでした。現実的に立太子が可能かどうかの違いは大きいはずです。
母を失った敦康親王と源氏ですが、彰子は敦康を引き取って養育しています。源氏も藤壺入内以降、藤壺に接近しているので、その点は類似しているといえます。なお桐壺更衣と藤壺は顔が似ているとされています。では定子と彰子はどうなのでしょうか。父が兄弟なので二人は従妹になりますが、似ているという話は聞きません。しかもその後、源氏は藤壺と密通事件を起こしてしまうのですから、敦康との中途半端な比較では意味がありません。まして敦康は色好みではないし、21歳で若死にしており、生きて栄華と権力を手に入れる源氏とは比較になりません。
ということで、桐壺巻を読んだ一条天皇が、そこに定子との悲恋を読み取ったとしてもなんら問題はありません。ただし定子を桐壺更衣のモデルとする山本淳子説には異議を申しあげます。それはかなり無理をしないと成り立たないからです。モデル論の定義(あるとすれば)をクリアーできているとは到底思えません。愛情問題として普遍的に符合するといわれても、それでモデル論が成立するわけではないのです。
というのも、私は桐壺(淑景舎)に居住した定子の妹原子(三条帝女御)こそは、更衣のモデルだと確信しています。なにしろ桐壺という共通点は看過できないと思うからです。さらに『栄花物語』に記されている死に方までもが類似しているのですから、正直な感想として、どうして原子を無視してまで定子に注目するのかわかりません。
大河ドラマを見ている人へ(2)―『源氏物語』へのオマージュ 2024.9.10
『源氏物語』の研究者たちは、今年の大河ドラマが「光る君へ」だということを聞いて、ドラマの中に『源氏物語』のシーンが登場するに違いないという期待を抱いていました。だからこそ大河に合わせて、たくさんの『源氏物語』の入門書やダイジェストが出版されているのです。それに対して統括プロデューサーの内田ゆきさんは「ドラマの中で『源氏物語』に触れることはありません」と宣言されました。「光る君へ」では、劇中劇としての『源氏物語』は描かれないというのです。研究者の目論見は見事に打ち砕かれてしまいました(売上も半減か?)。
ところが、さすがに大河ドラマはそれでは終わりません。ドラマの中に『源氏物語』を思い起こさせるシーンやモチーフが散りばめられていて、ファンにとってはそれらを見付けるという楽しみに満ちているとも告げられたからです。ネットでは『源氏物語』への「オマージュ」(敬意)という言い方が繰り返されています。
確かに第一話には、雀ならぬ小鳥が籠から逃げ出して飛んでいくシーンが出てきました。まひろは逃げた小鳥を追いかけていって、若き日の道長(三郎)と出会うのですから、この小鳥は非常に大事な小道具ということになります。これは若紫巻の垣間見場面における逃げた雀の話が下敷きにされています。それはさておき、その後もしばしば伏籠が映し出されていたので、これは何かの伏線になっているのかと思っていたところ、第三十三話に至ってようやくつながりました。道長が桐壺巻執筆のお礼にと、まひろに檜扇をプレゼントしたところです。まひろが檜扇を開くと、そこには川辺の童と女童と鳥が描かれていました。それは若き日の三郎とまひろ、そして逃げた小鳥の絵です。道長はその時の出会いをずっと覚えていたのです。これを若紫巻に当てはめると、まひろが紫の上で三郎が光源氏になります。それで終わりかと思っていたら、第三十四話でそれが若紫巻執筆の契機となっていましたね。そしてついに「雀の子を犬君が逃がしつる」と書き出されました。若紫巻誕生の瞬間です。
第二話でまひろは、代筆屋でアルバイトをしていました。そんなアルバイトがあったとは思えませんが、見ていると恋文の中にわざとらしく夕顔の歌(寄りてこそそれかとも見めたそがれにほのぼの見つる花の夕顔)が書かれているではありませんか。これは夕顔巻に出ている歌をそのまま利用したものです。どんな形で『源氏物語』が切り取られるのか、油断できません。なんだか私の知識が試されているようで恐いですね。その反面、引用に気が付かない人と気が付く人では、ドラマの面白さにかなりの個人差が出ます。
第三話では、帚木巻の「雨夜の品定め」が、道長や公任・斉信たち若い貴公子たちの男子会トークに活用されていました。恋文をネタに盛り上がっていたところです。これは第七話(打球)でも繰り返されていたし、さらに第三十三話の伏線にもなっていました。というのも、第七話で公任はまひろのことを「地味でつまらぬ女」と評したのですが、それをまひろは立ち聞いており、第三十三話で逆に公任たちに「私のような地味でつまらぬ女」と投げ返していたからです。それに斉信が気づくという流れでした。
第四話では、まひろが五節の舞姫になって舞を舞っていました。もちろん紫式部が五節の舞姫に選ばれた事実はありません。これは少女巻で舞姫に選ばれた惟光の娘に夕霧が懸想する場面が反映されているのでしょう。第五話では、左大臣の娘倫子が猫(小麻呂?)を追いかけて顔を出すシーンがありました。猫といえば即座に若菜上巻の女三宮の唐猫が思い浮かびます。この猫はその後も何度か登場していましたね。
とここまで毎回のように『源氏物語』が引用されていました。これではきりがありません。ですがドラマの展開とは別に、『源氏物語』の引用を探すという楽しみができました。これは脚本家の大石静さんが、私たち視聴者の教養を試しているともいえます。ある意味大石さんからの挑戦状なのです。あなたはわかりましたかと。それなら受けて立つしかありません。そういう見方も悪くはないと思います。
ちょっと飛んで第十五話には、空蝉巻が投影されていました。舞台は石山寺。たまたままひろと出会った藤原道綱は、夜になってまひろの寝所に夜這いをかけます。しかしそこに寝ていてたのは、まひろの連れのさわでした。光源氏は後に残された軒端の荻と関係を持ちますが、ドラマの道綱はさっさと退散します。それでも十分空蝉巻が想起されます。なお道綱役の上地雄輔さん、なかなかはまり役ではないでしょうか。第二十六話は、夫婦げんかでまひろが宣孝に灰を投げつけるシーンが出てきました。これは真木柱巻で、玉鬘に通い始めた夫の鬚黒に香炉の灰を浴びせる北の方が下敷きになっているのでしょう。
以上、気が付いたところをざっと紹介してみました。こういった多彩な引用に関して脚本家の大石静さんは、読売新聞美術展ナビのインタビューで、「紫式部の人生で起きたできごとが、のちに源氏物語にかかわってきたかもしれないと想像させるようなシーンは多々あります」と語っています。この場合、ドラマが『源氏物語』から部分的に切り取って活用したというのではなく、反対に紫式部の体験が自ずから物語のモチーフとして活かされているとお考えのようです。これからもそういった仕掛けを見逃さないようにしましょう。
大河ドラマを見ている人へ(1)―平安貴族女性の名前について 2024.9.3
2024年の大河ドラマ「光る君へ」では、紫式部のことを「まひろ」と称していますね。これは決して紫式部の本名でも幼名でもありません。脚本家の大石静さんが便宜的に命名したドラマ上の架空の名前です。ただ大河ドラマで一年間「まひろ」という名が使われると、知らない間に「まひろ」が定着してしまいそうで、それがちょっと問題かもしれません。
もちろん当時の貴族女性には、ちゃんと名前が付けられていました。身分の高い上流貴族なら、定子とか彰子、あるいは倫子・明子・詮子など、名前が分かっています(記録に留められています)。それに対して身分の低い下級貴族の場合、まず本名が書物に記載されることがないので、本名を知る手がかりがありません。
下級貴族で、特に宮仕えなどしたことのない女性は、外部に名前が漏れることはほぼありません。たとえば『蜻蛉日記』の作者として知られている道綱母がその代表です(大河の「寧子)は創作です)。彼女の場合、若くして兼家と結婚しているので、宮仕え経験はありません。有名な『蜻蛉日記』の作者だからといって、本名がわかるわけではないのです。
それでは困るので、便宜的にその人を特定する手段として、父親や夫や息子が担ぎ出され、〇〇の娘とか〇〇の妻、〇〇の母という表記がなされているわけです。可能性としては父藤原倫寧の娘、夫藤原兼家の妻、息子藤原道綱の母という三択が考えられます。ただし兼家には時姫という正妻がいたので、兼家の妻とは称されないのでしょう。
『更級日記』の作者は菅原孝標の娘ですね。彼女の場合、夫橘俊通の名でも子供仲俊の名でも呼ばれていないし、祐子内親王に出仕した際の女房名でもありません。
ついでながら兼家の妻「時姫」は本名でしょうか。彼女も下級貴族の出身ですし、宮仕えもしていないので、本来ならば名前がわかるような人ではありません。ところが彼女が生んだ道隆・道兼・道長。超子・詮子らが出世したこと、さらに詮子が生んだ懐仁親王が一条天皇として即位したことで、彼女は永延元年(987年)に正一位を贈位されています。これによって本名が書き残される資格を得たわけです。
唯一の疑問といえば、下級貴族の娘に最初から「姫」が付いていることです。これは夫や息子たちの出世によって、後から付与されたものかもしれません。そうなると本名は、単純に「時子」であった可能性も捨てがたいことになります。真相は不明ですが、貴族女性の本名にはこんな問題もはらんでいるのです。
さて道綱の母の場合、「倫寧の娘」も「道綱の母」も可能というか間違っていません。おそらく若い時には「倫寧の娘」だったのが、道綱が右大将にまで出世したことによって、途中から「道綱の母」に移ったのではないでしょうか(その頃には兼家も死去)。
これに対して宮仕えに出た女性たちは、いわゆる女房名で呼ばれています。清少納言や赤染衛門などがその例です。和泉式部など、父大江雅致(式部丞)にちなんで「江式部」という女房名もあったのに、別れた夫和泉守橘道貞にちなむ「和泉式部」で生涯を通して呼ばれています。これも奇妙ですね。やや特殊な女性として、道隆の正妻高階貴子があげられます。彼女も下級貴族出身ですが、円融天皇の内侍として宮仕えしたことで「髙内侍」と称されています。「髙」は高階から採られたものです。内侍として従三位の位まで与えられていたので、本名がわかるのでしょう。
その後、彼女は藤原道隆の妻になって伊周・隆家・定子・原子などを生んでいます。ご承知のように定子は一条天皇の后になり、伊周は内大臣の位にまで登っています。この内大臣のことを中国では「儀同三司」といったことから、貴子は「儀同三司の母」と称されるようになりました。百人一首の作者名も「儀同三司の母」となっていますよね。
ということで、貴子は女房名から息子の官職名に移っていることがわかります。また自らの出世と夫や子供たちの活躍で、貴子という本名がわかっているのですが、それでも本名で呼ばれることはなく、最終的には「道綱の母」と同様に「儀同三司の母」で通しています。本名が分かっていても、本名で呼ばれることは避けられていたようです。
さて肝心の紫式部ですが、父藤原為時にちなんで「藤原為時の娘」、あるいは父が式部丞だったことから「藤式部」と呼ばれています。父は越前守に任命されているので、「越前」という女房名も可能です。また藤原宣孝と結婚したことで、夫の官職にちなんで「山城」とか「右衛門佐」という女房名も考えられますが、紫式部も正妻ではなかったし、宣孝はすぐに亡くなっているので、夫の官職で呼ばれることはありませんでした。むしろ紫式部の場合は、『源氏物語』の作者ということで、若紫(紫のゆかり)に因んで「紫式部」という名前がぴったりだったともいえます。私は強いて「香子」(角田文衛説)を採用する必要はないと思っています。