吉海直人の古典コラム *new!!

長らく連載されていた同志社女子大学HP

「教員によるコラム」の続編として、

吉海先生に古典コラムを書いていただけることになりました!どうぞお楽しみに♪          

 

吉海直人(よしかい・なおと)

1953年長崎生まれ。國學院大學大学院博士後期課程修了。博士(文学)。同志社女子大学名誉教授。専門は平安時代の物語及び和歌の研究。

『百人一首の正体』ほか著書多数。

 

〈吉海先生より〉

  女子大学の「教員によるコラム」に以下の項目を掲載しているので、

  こちらもお読みいただければ幸いです。

・謎だらけの「偏つぎ」(2024/02/20)

・藤原道長は「三郎」か?―大河ドラマ「光る君へ」第1回を見て(2024/01/09)

・「いづれの御時にか」―『源氏物語』を読むこと―(2022/10/03)

・『源氏物語』は疫病を描かない?(2022/04/13)

大河ドラマを見ている人へ(2)―『源氏物語』へのオマージュ              2024.9.10

『源氏物語』の研究者たちは、今年の大河ドラマが「光る君へ」だということを聞いて、ドラマの中に『源氏物語』のシーンが登場するに違いないという期待を抱いていました。だからこそ大河に合わせて、たくさんの『源氏物語』の入門書やダイジェストが出版されているのです。それに対して統括プロデューサーの内田ゆきさんは「ドラマの中で『源氏物語』に触れることはありません」と宣言されました。「光る君へ」では、劇中劇としての『源氏物語』は描かれないというのです。研究者の目論見は見事に打ち砕かれてしまいました(売上も半減か?)。

ところが、さすがに大河ドラマはそれでは終わりません。ドラマの中に『源氏物語』を思い起こさせるシーンやモチーフが散りばめられていて、ファンにとってはそれらを見付けるという楽しみに満ちているとも告げられたからです。ネットでは『源氏物語』への「オマージュ」(敬意)という言い方が繰り返されています。

確かに第一話には、雀ならぬ小鳥が籠から逃げ出して飛んでいくシーンが出てきました。まひろは逃げた小鳥を追いかけていって、若き日の道長(三郎)と出会うのですから、この小鳥は非常に大事な小道具ということになります。これは若紫巻の垣間見場面における逃げた雀の話が下敷きにされています。それはさておき、その後もしばしば伏籠が映し出されていたので、これは何かの伏線になっているのかと思っていたところ、第三十三話に至ってようやくつながりました。道長が桐壺巻執筆のお礼にと、まひろに檜扇をプレゼントしたところです。まひろが檜扇を開くと、そこには川辺の童と女童と鳥が描かれていました。それは若き日の三郎とまひろ、そして逃げた小鳥の絵です。道長はその時の出会いをずっと覚えていたのです。これを若紫巻に当てはめると、まひろが紫の上で三郎が光源氏になります。それで終わりかと思っていたら、第三十四話でそれが若紫巻執筆の契機となっていましたね。そしてついに「雀の子を犬君が逃がしつる」と書き出されました。若紫巻誕生の瞬間です。

第二話でまひろは、代筆屋でアルバイトをしていました。そんなアルバイトがあったとは思えませんが、見ていると恋文の中にわざとらしく夕顔の歌(寄りてこそそれかとも見めたそがれにほのぼの見つる花の夕顔)が書かれているではありませんか。これは夕顔巻に出ている歌をそのまま利用したものです。どんな形で『源氏物語』が切り取られるのか、油断できません。なんだか私の知識が試されているようで恐いですね。その反面、引用に気が付かない人と気が付く人では、ドラマの面白さにかなりの個人差が出ます。

第三話では、帚木巻の「雨夜の品定め」が、道長や公任・斉信たち若い貴公子たちの男子会トークに活用されていました。恋文をネタに盛り上がっていたところです。これは第七話(打球)でも繰り返されていたし、さらに第三十三話の伏線にもなっていました。というのも、第七話で公任はまひろのことを「地味でつまらぬ女」と評したのですが、それをまひろは立ち聞いており、第三十三話で逆に公任たちに「私のような地味でつまらぬ女」と投げ返していたからです。それに斉信が気づくという流れでした。

第四話では、まひろが五節の舞姫になって舞を舞っていました。もちろん紫式部が五節の舞姫に選ばれた事実はありません。これは少女巻で舞姫に選ばれた惟光の娘に夕霧が懸想する場面が反映されているのでしょう。第五話では、左大臣の娘倫子が猫(小麻呂?)を追いかけて顔を出すシーンがありました。猫といえば即座に若菜上巻の女三宮の唐猫が思い浮かびます。この猫はその後も何度か登場していましたね。

とここまで毎回のように『源氏物語』が引用されていました。これではきりがありません。ですがドラマの展開とは別に、『源氏物語』の引用を探すという楽しみができました。これは脚本家の大石静さんが、私たち視聴者の教養を試しているともいえます。ある意味大石さんからの挑戦状なのです。あなたはわかりましたかと。それなら受けて立つしかありません。そういう見方も悪くはないと思います。

 ちょっと飛んで第十五話には、空蝉巻が投影されていました。舞台は石山寺。たまたままひろと出会った藤原道綱は、夜になってまひろの寝所に夜這いをかけます。しかしそこに寝ていてたのは、まひろの連れのさわでした。光源氏は後に残された軒端の荻と関係を持ちますが、ドラマの道綱はさっさと退散します。それでも十分空蝉巻が想起されます。なお道綱役の上地雄輔さん、なかなかはまり役ではないでしょうか。第二十六話は、夫婦げんかでまひろが宣孝に灰を投げつけるシーンが出てきました。これは真木柱巻で、玉鬘に通い始めた夫の鬚黒に香炉の灰を浴びせる北の方が下敷きになっているのでしょう。

 以上、気が付いたところをざっと紹介してみました。こういった多彩な引用に関して脚本家の大石静さんは、読売新聞美術展ナビのインタビューで、「紫式部の人生で起きたできごとが、のちに源氏物語にかかわってきたかもしれないと想像させるようなシーンは多々あります」と語っています。この場合、ドラマが『源氏物語』から部分的に切り取って活用したというのではなく、反対に紫式部の体験が自ずから物語のモチーフとして活かされているとお考えのようです。これからもそういった仕掛けを見逃さないようにしましょう。

 

大河ドラマを見ている人へ(1)―平安貴族女性の名前について              2024.9.3

 2024年の大河ドラマ「光る君へ」では、紫式部のことを「まひろ」と称していますね。これは決して紫式部の本名でも幼名でもありません。脚本家の大石静さんが便宜的に命名したドラマ上の架空の名前です。ただ大河ドラマで一年間「まひろ」という名が使われると、知らない間に「まひろ」が定着してしまいそうで、それがちょっと問題かもしれません。

 もちろん当時の貴族女性には、ちゃんと名前が付けられていました。身分の高い上流貴族なら、定子とか彰子、あるいは倫子・明子・詮子など、名前が分かっています(記録に留められています)。それに対して身分の低い下級貴族の場合、まず本名が書物に記載されることがないので、本名を知る手がかりがありません。

 下級貴族で、特に宮仕えなどしたことのない女性は、外部に名前が漏れることはほぼありません。たとえば『蜻蛉日記』の作者として知られている道綱母がその代表です(大河の「寧子)は創作です)。彼女の場合、若くして兼家と結婚しているので、宮仕え経験はありません。有名な『蜻蛉日記』の作者だからといって、本名がわかるわけではないのです。

 それでは困るので、便宜的にその人を特定する手段として、父親や夫や息子が担ぎ出され、〇〇の娘とか〇〇の妻、〇〇の母という表記がなされているわけです。可能性としては父藤原倫寧の娘、夫藤原兼家の妻、息子藤原道綱の母という三択が考えられます。ただし兼家には時姫という正妻がいたので、兼家の妻とは称されないのでしょう。

 『更級日記』の作者は菅原孝標の娘ですね。彼女の場合、夫橘俊通の名でも子供仲俊の名でも呼ばれていないし、祐子内親王に出仕した際の女房名でもありません。

 ついでながら兼家の妻「時姫」は本名でしょうか。彼女も下級貴族の出身ですし、宮仕えもしていないので、本来ならば名前がわかるような人ではありません。ところが彼女が生んだ道隆・道兼・道長。超子・詮子らが出世したこと、さらに詮子が生んだ懐仁親王が一条天皇として即位したことで、彼女は永延元年(987年)に正一位を贈位されています。これによって本名が書き残される資格を得たわけです。

 唯一の疑問といえば、下級貴族の娘に最初から「姫」が付いていることです。これは夫や息子たちの出世によって、後から付与されたものかもしれません。そうなると本名は、単純に「時子」であった可能性も捨てがたいことになります。真相は不明ですが、貴族女性の本名にはこんな問題もはらんでいるのです。

 さて道綱の母の場合、「倫寧の娘」も「道綱の母」も可能というか間違っていません。おそらく若い時には「倫寧の娘」だったのが、道綱が右大将にまで出世したことによって、途中から「道綱の母」に移ったのではないでしょうか(その頃には兼家も死去)。

 これに対して宮仕えに出た女性たちは、いわゆる女房名で呼ばれています。清少納言や赤染衛門などがその例です。和泉式部など、父大江雅致(式部丞)にちなんで「江式部」という女房名もあったのに、別れた夫和泉守橘道貞にちなむ「和泉式部」で生涯を通して呼ばれています。これも奇妙ですね。やや特殊な女性として、道隆の正妻高階貴子があげられます。彼女も下級貴族出身ですが、円融天皇の内侍として宮仕えしたことで「髙内侍」と称されています。「髙」は高階から採られたものです。内侍として従三位の位まで与えられていたので、本名がわかるのでしょう。

その後、彼女は藤原道隆の妻になって伊周・隆家・定子・原子などを生んでいます。ご承知のように定子は一条天皇の后になり、伊周は内大臣の位にまで登っています。この内大臣のことを中国では「儀同三司」といったことから、貴子は「儀同三司の母」と称されるようになりました。百人一首の作者名も「儀同三司の母」となっていますよね。

 ということで、貴子は女房名から息子の官職名に移っていることがわかります。また自らの出世と夫や子供たちの活躍で、貴子という本名がわかっているのですが、それでも本名で呼ばれることはなく、最終的には「道綱の母」と同様に「儀同三司の母」で通しています。本名が分かっていても、本名で呼ばれることは避けられていたようです。

 

 さて肝心の紫式部ですが、父藤原為時にちなんで「藤原為時の娘」、あるいは父が式部丞だったことから「藤式部」と呼ばれています。父は越前守に任命されているので、「越前」という女房名も可能です。また藤原宣孝と結婚したことで、夫の官職にちなんで「山城」とか「右衛門佐」という女房名も考えられますが、紫式部も正妻ではなかったし、宣孝はすぐに亡くなっているので、夫の官職で呼ばれることはありませんでした。むしろ紫式部の場合は、『源氏物語』の作者ということで、若紫(紫のゆかり)に因んで「紫式部」という名前がぴったりだったともいえます。私は強いて「香子」(角田文衛説)を採用する必要はないと思っています。